オリガ・モリソヴナの反語法


10月16日(火)

秋が深まってきた。イギリスの木々はいっぺんに色づく訳ではなく,木によってずいぶん紅葉の進捗が違う。気温は毎朝5度を下回る感じだから,葉が色づくには十分だと思うのだけど,そう簡単ではないらしい。とはいえ,秋のイギリスも美しい。まだ晴天の日も多く,そんな日はこころが和む。

大学では,Ph.D.の学生向けの授業に出してもらおうと,ずいぶん前からお願いしているのだけど,これがなかなかうまく進まない。学科の秘書Lyneeさんにメールでお願いしてから1週間,音沙汰無し。その後,再度お願いしてみるも,また1週間音沙汰無し。うむ。今週の頭にもう一度願いすると、ようやく担当の先生からメールが来た。それに返信するも,ここ2日,返事はなし。授業はずいぶん前から始まっているのに,未だ,出席できるかどうかもよくわからない。うむむ。

授業に出られることになれば,正直,プレッシャーがかかるけど,この少し単調すぎる生活に変化があるかもしれない。考えてみればそんなたいしたことではないかもしれないのだけど,心にもやもやを抱えたまま,状況の進展を待つ今日この頃。早くはっきりすればいいのだけれど。

米原万里「オリガ・モリソヴナの反語法」を読了。この本もロンドン三越の日本語書店で,大枚をはたいて買ったもの。イギリスで日本語の本を買うと高いし,頻繁には買えないので,失敗は許されない。さらに,この本を買ったときは,帰りの電車の時間も迫っていて,早急に買う本を決めないといけない状況だった。米原さんの本は,最初に手にとった書評「打ちのめされるようなすごい本」が好印象で,小説でもおそらく失敗はないであろう,と判断して購入。結果,この判断は正解。最近は本選びの失敗が,本当に減ったと思う。

主人公の志摩は,1960年代,チェコ・プラハに住みながら,ソビエトが運営する小学校で学ぶという過去をもっていた。志摩はそこで出会った,老女の舞踏教師,オリガ・モリソヴナに魅了される。相当な高齢だと思われるが,踊りは超一流。褒め言葉で人をけなす独特の「反語法」で子供を鼓舞しながら,学芸会向けの踊りを完璧仕上げる。大人になった志摩は,謎に包まれたオリガ・モリソヴナの過去を探るために,ソビエト崩壊後のモスクワで謎解きの旅を始める。

基本的には,オリガ・モリソヴナに関わる謎解きが中心のフィクションでありながら,スターリン時代のソビエトに関する史実に基づいて話は展開していき,日本の読者にはあまりなじみのない,社会主義の暗部が物語の強烈なバックグラウンドとなっている。オリガ・モリソヴナとその親族・友人たちが,どのような過酷な時代を生きたのか。その史実が,フィクションである小説を通して読者に伝わるという,珍しい構造の本である。私自身も,スターリン時代のソビエトがいかに過酷で,人間の尊厳を痛めつける社会であったか,ということを,初めてこの本に教えてもらった。

エッセイストとしては超一流の彼女も,小説としてはこれが処女作。そういう意味で,同じ謎解きとはいえ,チャンドラーのような完璧な台詞とストーリー展開があるわけではない。キーとなる人物が都合よく現れすぎたり,台詞が説明的になりすぎるなど,文章,あるいは,小説のスタイルとしての完成度は高くないかもしれない。ただ,オリガ・モリソヴナとその関係者のフィクションとしての人生と,ソビエトという大国の史実を巧みに組み合わせ,ノンフィクションのような迫力と,フィクションとしてのおもしろさを両立させたところは,本当に見事。何より,著者の熱が感じられる小説である。アマゾンの読者評価も,すこぶる高い。心を揺さぶる本だからだろうな。

著者は2006年に56歳で逝去。若すぎる。これから20年ぐらい小説家として活躍してくれれば,もっと完成度の高い作品を読ませてくれただろう。合掌。

追記:
これが,このサイトの100本目の投稿になった。足かけ4年。よく続いたな。

作家と翻訳

10月10日(水)

10日の深夜1時過ぎ。うまく寝られず,まだ起きている。こんな文章を書いていると,さらに寝られなくなるなぁ,と思いながら。でもまあ,明日,急いでやることもないし,とも思いながら。結局書くことにする。

あてもなくネットを見ていると,Numberのサイトで文集文庫 秋の100冊フェアのリンクを見つけた。その海外文学の項に(最近は海外の作品ばっかり読んでいるなぁ),グレイス・ペイリー「人生のちょっとした煩い」が紹介されていた。村上春樹訳。だけど,知らない本だ。

さっそくアマゾンのサイトもチェックしてみる。なになに,「「ペイリーさんの小説は、とにかくひとつ残らず自分の手で訳してみたい」と村上氏が語る、アメリカ文学のカリスマにして伝説の女性作家の第一作品集。」 そんな文章を読んだら,読みたくなるじゃないか。でも,現在,日本語の新しい本を手に入れるためには,けっこうなコストがかかる。ページ数は303。そんなに大部ではないし,すぐ読めてしまいそう。う~む,残念ながら,日本に帰ってからにするか・・。

でも,村上さんの翻訳書は,文学作品としての質も,翻訳の質も高水準なことがわかっているので,いつか必ず手に取ることになると思う。ポイントは,すぐれた作家が翻訳もやっているという点。あたりまえだけど作家が本業なので,翻訳された日本語がすばらしく,読んでいて安心感がある。他の翻訳家の中には,英語の知識はあるんだろうけど,日本語が下手,という人がたまにいる。おそらく日本語をあまり読んでいないんだろうな,と思わせるような翻訳は,やっぱり読んでいてストレスになる。その意味で,村上さんの翻訳は貴重だし,こういう翻訳書を読めることの幸せを感じるべきだな,と最近思うようになった。それに村上さんの作品解説も,いつもすばらしいし。

それはそうと,村上さんの翻訳書,次から次へと出ているなぁ。アマゾンでちょっとチェックしただけでも,未読の本が多数。同じくグレイス・ペイリー「最後の瞬間のすごく大きな変化」カポーティ「誕生日の子供たち」ティム・オブライアン「世界のすべての7月」。あいかわらず,すごい仕事量。まねしたいけど・・・無理なんだよな^^

そういえば,ノーベル文学賞の発表も近づいてきた。とるかな,今年は。

所有せざる人々

9月30日(日)

9月も今日で終わりで,在外もちょうど折り返し地点に到達した。最初の苦労を考えれば,とても穏やかな生活が送れているような気がする今日この頃。体調もよい。この10年ほどで積もり積もった疲れがとれてきたのかな。ゆっくり仕事ができるので,量をこなしても,それほどストレスがたまらない。このブログには疲れた・・と書くことが多いので,そうではないときの記録も残しておかないとな^^

ル・グィン「所有せざる人々」を読了。これまたK先生にはるばるスイスまで持ってきてもらって,受け取った本。プライベートの本をもってきてもらうのはやや気が引けたんだけど,時間のある在外中にゆっくり本を読みたい,という気持ちも押さえきれず,一冊だけお願いした。でもそれだけの価値がある本だった。K先生,本当にありがとうございました。

舞台は,架空の惑星,アナレスとウラス。アナレスは,オドー主義というアナーキズム思想をもつ人々がウラスから亡命して住む惑星。主人公のシェヴェックは,時間の同時性理論を構築しようとするアナレスの物理学者で,自身の物理学を発展させようと,100年以上交流の途絶えたウラスに1人で向かうことになる。資本主義や社会主義の国々が争い,貧富の差が大きいウラスで,シェヴェックは徐々にオドー主義とは異なる世界のありようと,自分がなぜウラスに呼ばれたのを理解し,ついに行動をおこす・・・。

500頁を超える大書で,多様な要素が絡み合い,短くこの本の内容をまとめるのは相当に難しい。シェヴェックの若きころからウラスに向かうまでの章と,ウラスに来てからの章が交互に語られ,2つの惑星の様子が読者に徐々に理解されるようになる。また,オドー主義というアナーキズム思想,そして資本主義,社会主義を巡る世界観が,物語のバックグラウンドとして自然に展開されている。さらに,時間の同時性理論,という,これまた興味深い物理学の理論が、シェヴェックの口から説明され,それもなんとく理解できるな・・という感じで、しっくりと物語と調和している。

本書を読んでいてまず驚かされるのは,このような多様な世界観を,1つにまとめ上げ,読者を違和感なく物語の世界へ引き込んでいくことだ。小説を書く能力だけでなく,思想や科学への知識が著者の中に定着していないと,これだけ複雑な構成の物語を,これだけ自然に描ききることはできないはずだ。ル・グィンといえば,「ゲド戦記」が有名だし、私もそれしか読んだことがなかったけど,この本を読むとゲド戦記はやっぱり子供向けの物語だ・・・と思ってしまう。もちろんゲド戦記だって,特別な物語だと思うんだけど。

それと,最後の解説を読んで分かったこと。著者が,どのようにして,このような壮大にして,複雑な物語を描くことになったのか。それは,「人を表現するため」であったという。

「ル・グィンは,小説を書くというのは,バージニア・ウルフにとってちょうどミセス・ブラウンがそうだったのと同じように、電車の向かい側の席の隅にすわっている老婦人から始まるのだという。それはまた,作者の心の中に現れて,”さあ,わたしは誰だと思います,つかまえられるならつかまえてごらん!”そう挑発する魅力的な人物を捉えようとする行為なのだと。言いかえれば,あらゆる小説は人物を描くものであり,教条を説くためでも歌をうたうためでもないと述べているのだ。」(解説,p.568)

つまり,この本の壮大な世界観と数々の仕掛けは,ひとえに「シェヴェック」という主人公を描くための手段である,ということだ。舞台設定のおもしろさや思想を描くため,という理由でこの物語を書けば,おそらく焦点のぼやけた,仕掛けのわざとらしさだけが目立つ,困った小説になってしまうだろう。シェヴェックというきわめて興味深い,また,物語を有効に立ち上げうる魅力的な人物を描く,という目的がぶれないからこそ,この政治と科学をひっくるめたような舞台設定ができあがったのだろう。う~ん,深い。

しかし,この解説はいい。著者名がなくH.K.のイニシャルのみ。物語を引き立てる解説というのはそれほど多くないけど,この解説はよかった。誰なんだろう・・・?

ついでみたいなったけど,磯淵猛「金の芽 インド紅茶紀行」も読了。ミルトン・キーンズの図書館の、ごくわずかな日本語の本の中から,妻が偶然借りてきたもの。紅茶には全く興味がなかったけど,アッサムとセイロンという紅茶の産地の背後に,こんな物語があったとは。すごく勉強になった。

明日から10月。後半は,少し研究的な挑戦もしてみようと思う。さて、果たしてどうなりますか・・・。