所有せざる人々

9月30日(日)

9月も今日で終わりで,在外もちょうど折り返し地点に到達した。最初の苦労を考えれば,とても穏やかな生活が送れているような気がする今日この頃。体調もよい。この10年ほどで積もり積もった疲れがとれてきたのかな。ゆっくり仕事ができるので,量をこなしても,それほどストレスがたまらない。このブログには疲れた・・と書くことが多いので,そうではないときの記録も残しておかないとな^^

ル・グィン「所有せざる人々」を読了。これまたK先生にはるばるスイスまで持ってきてもらって,受け取った本。プライベートの本をもってきてもらうのはやや気が引けたんだけど,時間のある在外中にゆっくり本を読みたい,という気持ちも押さえきれず,一冊だけお願いした。でもそれだけの価値がある本だった。K先生,本当にありがとうございました。

舞台は,架空の惑星,アナレスとウラス。アナレスは,オドー主義というアナーキズム思想をもつ人々がウラスから亡命して住む惑星。主人公のシェヴェックは,時間の同時性理論を構築しようとするアナレスの物理学者で,自身の物理学を発展させようと,100年以上交流の途絶えたウラスに1人で向かうことになる。資本主義や社会主義の国々が争い,貧富の差が大きいウラスで,シェヴェックは徐々にオドー主義とは異なる世界のありようと,自分がなぜウラスに呼ばれたのを理解し,ついに行動をおこす・・・。

500頁を超える大書で,多様な要素が絡み合い,短くこの本の内容をまとめるのは相当に難しい。シェヴェックの若きころからウラスに向かうまでの章と,ウラスに来てからの章が交互に語られ,2つの惑星の様子が読者に徐々に理解されるようになる。また,オドー主義というアナーキズム思想,そして資本主義,社会主義を巡る世界観が,物語のバックグラウンドとして自然に展開されている。さらに,時間の同時性理論,という,これまた興味深い物理学の理論が、シェヴェックの口から説明され,それもなんとく理解できるな・・という感じで、しっくりと物語と調和している。

本書を読んでいてまず驚かされるのは,このような多様な世界観を,1つにまとめ上げ,読者を違和感なく物語の世界へ引き込んでいくことだ。小説を書く能力だけでなく,思想や科学への知識が著者の中に定着していないと,これだけ複雑な構成の物語を,これだけ自然に描ききることはできないはずだ。ル・グィンといえば,「ゲド戦記」が有名だし、私もそれしか読んだことがなかったけど,この本を読むとゲド戦記はやっぱり子供向けの物語だ・・・と思ってしまう。もちろんゲド戦記だって,特別な物語だと思うんだけど。

それと,最後の解説を読んで分かったこと。著者が,どのようにして,このような壮大にして,複雑な物語を描くことになったのか。それは,「人を表現するため」であったという。

「ル・グィンは,小説を書くというのは,バージニア・ウルフにとってちょうどミセス・ブラウンがそうだったのと同じように、電車の向かい側の席の隅にすわっている老婦人から始まるのだという。それはまた,作者の心の中に現れて,”さあ,わたしは誰だと思います,つかまえられるならつかまえてごらん!”そう挑発する魅力的な人物を捉えようとする行為なのだと。言いかえれば,あらゆる小説は人物を描くものであり,教条を説くためでも歌をうたうためでもないと述べているのだ。」(解説,p.568)

つまり,この本の壮大な世界観と数々の仕掛けは,ひとえに「シェヴェック」という主人公を描くための手段である,ということだ。舞台設定のおもしろさや思想を描くため,という理由でこの物語を書けば,おそらく焦点のぼやけた,仕掛けのわざとらしさだけが目立つ,困った小説になってしまうだろう。シェヴェックというきわめて興味深い,また,物語を有効に立ち上げうる魅力的な人物を描く,という目的がぶれないからこそ,この政治と科学をひっくるめたような舞台設定ができあがったのだろう。う~ん,深い。

しかし,この解説はいい。著者名がなくH.K.のイニシャルのみ。物語を引き立てる解説というのはそれほど多くないけど,この解説はよかった。誰なんだろう・・・?

ついでみたいなったけど,磯淵猛「金の芽 インド紅茶紀行」も読了。ミルトン・キーンズの図書館の、ごくわずかな日本語の本の中から,妻が偶然借りてきたもの。紅茶には全く興味がなかったけど,アッサムとセイロンという紅茶の産地の背後に,こんな物語があったとは。すごく勉強になった。

明日から10月。後半は,少し研究的な挑戦もしてみようと思う。さて、果たしてどうなりますか・・・。





ロング・グッドバイ 再読

9月16日(日)

金曜日,家に帰ると次女が熱を出して寝ていた。というわけで,週末は家でだらだらと過ごす。幸い,次女の症状はたいしたことがなくて,すぐに熱も下がり,今は1階でレゴで遊んでいる。明日は小学校に行けるかな。

9月に入ってクランフィールド大学の修士課程が終わりを迎え,知り合いになった学生たちが一斉に大学を去って行った。多くは日本人だけど,外国人もちらほら。私の乏しい人間関係でも,少しは友達ができたのだけど,彼らが去って行って,少し寂しい。日も短くなってきて,なんだか弱気な私がそろりそろりと幅をきかせてきそうな感じ。そんな中,最近は,J先生にお茶や食事に誘ってもらい,とてもありがたい。私の適当な英語でも理解してくれるし,会話のトレーニングにもなる。何かおかえしができるといいのだけれど。

最近の出来事。日本人の学生たちと家でさよならパーティー。ここぞ,とばかりの快晴で,庭で楽しく食事をすることができた。でも,久しぶりで調子にのって飲み過ぎ,1つ2つ失敗をしでかす。妻に一生言われるレベルの失敗をしでかすとは・・・不覚。家の車をMOTという法定点検に出す。たった40分で終了,パス,と言われて,ぐっと親指を立てられる。よかった・・・とは全く思うことのできない,至極簡単な検査。なんとなく不安なので,日本人運営の修理工場に詳しい検査に出すことにした。一路,ロンドンまで妻とドライブ。2時間半ほどで,無事点検完了。大きな問題はなし。でも,修理を依頼していた左のミラーが割れたまま。新しいものに付け替える際に,また割ったのだとか。日本人経営でも,なんだかイギリス的な話でちょっとおもしろい。昨日は,またまたロンドンに行き,病院で定期検診。特に異常なしだけど,耳の中がかゆいので,かゆみ止めの薬をもらってきた。途中ロンドン三越の書店で,カズオ・イシグロ「遠い山なみの光」をさんざん迷ったあげく購入。この書店,よくよく調べてみると,価格は日本の倍以上。ちなみに,この本は定価700円で,13ポンド。う~ん,高い。心して読まないと。

チャンドラー「ロング・グッドバイ」,を再読。最近,同じ本を2度読むのは珍しいのだけど,これは以前から再読を決意していたので,日本から文庫を持参してきた。以前に読んだときの感想がこれ(2009年7月)。そのときよりは,すっと物語の中に入っていけた気がする。

今回印象に残ったのは,お金持ちのリンダがマーロウに結婚を迫るシーン。マーロウ42歳,リンダ34歳。大人の心理の描き方が秀逸で,2人の気持ちが行間ににじむ感じ。それと,もう一つの読みどころは,違いなく村上氏の解説。チャンドラーという作家がマーロウという主人公を活躍させる作品群の中で,何をしたのか。この解説は,チャンドラーという作家の革新性が,素人にでも分かる形で提示されている。これを読めば,私にも小説が書けるのではないか,と思わせるほどに・・・というのは,嘘だけど,作家にしか書けない,優れた解説である。

明日から9月も後半。そろそろ研究のペースを上げないと,な。在外も残り半年。しっかりやらなくては。


社会科学のリサーチ・デザイン つづき


9月10日(月)

キング他「社会科学のリサーチ・デザイン」の後半を読了。ようやく全体像がつかめた。

本書の因果的効果の推論についてキーポイントになるのは,因果的効果の推論が、本書の中に示される「因果的効果の定義」に基づいて厳密に捉えられており,この定義に基づかない推論は一切みとめない,という点にあると思う。

「因果的効果とは,説明変数がある値をとるときに得られる観察の体系的な要素と説明変数が別の値をとるときに得られる観察の体系的な要素との差である」(p.97)

一般的な実験計画法と同じように,この定義に従えば,鍵となる説明変数に差があり,それ以外の条件が全く同一の2つの事例(観察)の比較をおこなうことで,説明変数の従属変数に対する因果的効果が推論できる(そして,その比較を厳密にするために,様々な点が考慮されなければならない。例えば,バイアスを避け,有効性を高め,内生性の問題を回避することである)。これらの議論の背後にあるのは統計学の論理であり、私たちがサーベイ調査をおこなう際に配慮する点を,いかにケース・スタディでも配慮するのか,が説かれている,といってもよいと思う。つまり,観察の数(n数)は多い方がよいし,多重共線性に注意し,鍵となる説明変数以外で従属変数に影響を与える変数を統制しなければならない。特に、バイアスを避けるための事例(観察)の選択の仕方は厳密で、参考になる点が多いと思う(経営学では、この点はやや議論が弱い気がする)。

しかし,少なくとも私の知るケース・スタディでは,1つの事例からの(つまり,比較なしの)因果的効果の推論を認める方法論が多いように思う。少なくとも,Yinの方法論は単独の事例から推論される因果メカニズム(因果効果の連鎖)を推論する方法を提示しているし,田村(2006)にも紹介されている「過程追跡」の手法は,それを正面から議論している。このような単独事例の因果推論を認めるかどうかが,私たちの知る一般的な経営学のケース・スタディの考え方と決定的に異なる点だと思う。

個人的には,この本で示されるスタイルも,ケース・スタディの1つのあり方だし,強い説得力があるなと思う一方で,かなり極端な議論だな, とも思う。この本の示す方法によると,ケース・スタディは,定量的な方法が何らかの理由でなじまない(例えば、n数が少ない,あるいは,サーベイ調査になじまない)調査対象に適用される方法,ということになる。さらに,個々の事例から因果的あるいは,記述的推論以外の成果は期待できない,ということにもなる。個人的には,それではケース・スタディがもっている手法としての特徴がとらえきれていないのではないか,と思うのだが・・・。例えば,構成概念の探索,あるいは,仮説の構築・・・。

ただもう少し勉強を続けないと,この辺の結論は出てこないかな。続けて読むとすれば、この本だけど、どうやって手に入れるか・・・。仕方ないので、英語で読むか。いずれにしても、よい勉強になった。

社会科学のリサーチ・デザイン

9月6日(木)

昨日から子供たちの小学校が新学期となった。朝ご飯が終わると,子供たちが「何しようか~」とごそごそ動き出すくつろいだ感じもいいけれど,少しバタバタしながらも,規則的に物事が流れていく日常も,それはそれで気持ちのよいものである。私の生活も,少し研究よりにシフトできそうな感じがする。

ここ数日は,研究室でキング他「社会科学のリサーチ・デザイン」を読み続けている(K先生,遠くまで本をもってきてくれて,ありがとうございました)。政治学の方法論の教科書だけど,目を見開かされるような指摘が多く,この種の本としては珍しくページをめくるスピードが速い。こんな重要な翻訳書をいままで読んでいなかったのは,私の怠慢で恥ずべきところだけれども,これを反映したような日本語の論文も,目にしないような気がする。皆,どのようにとりいれればいいのか,逡巡しているのか。あるいは,すでに考えを取り入れた論文も存在するのか・・・?

この半年で学んだケース・スタディに関する知見を,個人的なメモとしてワーキングペーパーにまとめようと思っていたのだけど,この本の出現でもう少し時間がかかりそうだ。でも,因果的推論や研究そのものに関する理解は,確実に深まった気がする。

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せっかくなので,ここまで読んだ3章まで(全体の約半分)の内容で,インパクトのあった点を整理してみようと思う。大きく2つの点。第1は,この本がこれまでに読んできた方法論の観点を俯瞰し,体系的に整理してくれているということ。特に,因果関係の基本的な定義と比較研究の関係を論じる流れは,個人的にかなり有益であった。要するに,比較研究とは,因果的効果を推定する際に発生する根本的な問題を回避する方法としてあり,ほぼ同じと見なすことができる(単位同一性を満たした)対象における原因変数の違いから,因果効果を推測する方法,ということになるだろうか(自分だけに分かる書き方となっています。すいません)。

第2に,このような体系的な整理が,最終的に統計的な考え方を使って整理されており,そのこと自体が,定量的な研究と定性的な研究が,本質的には異なるものではないということを物語っていること。もちろん,この種の考え方に対して異論は存在するのだろうけど(全く異なる特徴をもっていて,しかも偉大な貢献をした事例研究も多く存在する),それでも,ここに提示された方法が1つの考え方として強い説得力を持っているのは間違いないと思う。

しかし,政治学と経営学,学問が異なるだけで,ずいぶん議論のレベルが違うな,という感がある。いずれにしても,この半年が無駄にならないように,私個人の研究に活かさなければ。

日はまた昇る

8月10日(金)

ここ数日はいい天気が続いている。朝起きると今日も天気がよかったので,急遽,車で1時間ほどのBicesterというところのアウトレット・パークにドライブ。何かを買うつもりはなかったのだけど,ポロ・ラルフローレンで,珍しく私に合うサイズの黒のセーターを発見し,購入。妻と子供はCath Kidstonでエプロンと小さなバッグを入手。たっぷりサイズのジェラードも食べられて,皆ご満悦。




お盆前といえば,日本は一番暑い時期なのに,こちらは5月のようにさわやか。穏やかなイギリスの夏休み。このブログを書き終わったら,今日も庭でビールを飲もう^^

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ヘミングウェイ「日はまた昇る」を読了。先日,ロンドン三越の日本人向け書店で購入したもの。品揃えとしては商店街の小さな本屋,という感じだけど,久しぶりに日本語の本をいっぱいみたら,少し興奮してしまって,3冊も買ってしまった。値段が日本の倍ぐらいするのを知ったのは,会計時で後の祭り・・・。まあ,高いのは仕方ないけどね。

私にとっては初めてのヘミングウェイ。すごくおもしろく読める。最初は,昼間からお酒を飲みまくって,遊び回る若者の描写が続いて,なんだかな~と思っていたけど,話の舞台が闘牛祭りの開催されるスペイン・パンプローナ話に移ってから,俄然読ませるようなってくる。ストーリーとしては,1人のイノセントな女性を巡る男性陣のバタバタを描いた単純な恋愛もの?だけど,闘牛のお祭り(フィエスタ)の最中,という舞台設定と,1人1人の人物が背負うバックグランドが,物語に独特の雰囲気と緊張感を与えている。特に主人公が戦争の疵で性的な関係が持てない,という設定は,ブレンダとの関係になんとも言えない距離感をつくりだす。祭りが終わった後に,マドリードに移るラストシーンはすごくいい。その後の小説に大きな影響を与えた,というのもよく分かる話である。

しかしこの話,ほとんど同じことがパンプローナで起こったらしい。実際にあった話だからこそ,描写が鮮明になるのだろうけど,書く方はには相当な勇気がいるわね。周りの人も,本当に迷惑しただろうし(最後に作者と重なる主人公がいい目を見る,というのもちょっと・・・)。それぐらいしないと名作は書けない,のかな。

銃・病原菌・鉄

7月24日(火)


ジャレド・ダイヤモンド「銃・病原菌・鉄」を読了。こんなすごい本をゆっくり読めて幸せ。

本書の問題意識は,次のような形で明確に示される。「現代世界における各社会間の不均衡についての疑問。世界の富や権力は,なぜ現在あるような形で分配されてしまったのか?なぜほかの形で分配されなかったのか?たとえば,南北アメリカ大陸の先住民,アフリカの人々,そしてオーストラリア大陸のアボリジニが,ヨーロッパ系やアジア系の人びとを殺戮したり,征服したり,絶滅させるようなことが,なぜ起こらなかったのだろうか」。そして,その答えは簡潔に述べると次のようになるという。「それは,人びとのおかれた環境の差違によるものであって,人々の生物学的な差違によるものではない」。難しい問題にも関わらず,論旨は明快。難しい問いへの解答が,簡単な論理の積み重ねで説明されている。謎解きはかくあるべし,だよなぁ。

この本は米国の「ピュリッツァー賞」,日本の「コスモス国際賞」を受賞し,さらに朝日新聞の「ゼロ年代の50冊」のベスト1に選ばれている。著者のジャレド・ダイヤモンド氏は,カリフォルニア大学ロサンゼルス校の医学部教授のようであるが,肩書きは,生理学者,進化生物学者,生物地理学者となっている。実際,この本では,考古学等のいわゆる歴史科学(本書にならって,そのように記述する)の知識だけでなく,植物に関する遺伝子学,分子生物学,生物地理学,動物(家畜)に関する行動生態学,病原菌に関連する分子生物学,疫学,さらに言語学,文化人類学,等々といった多くの学際的な研究成果を統合する形で,論が進められている。この博学,広い分野の研究業績を理解し,統合し,明確な結論を導く著者の力量は,驚嘆の域を超えている。こんな仕事ができる人がいること自体が信じられない。

この本の特徴は,上記のような歴史科学に関する問いを,明快な因果関係の連鎖として説明していることである。上巻p.153ページには,本書の問いに関する因果関係を示した図が存在し,鳥瞰図の役割を果たしている。歴史科学という分野の中で,このように因果関係を明確に特定している業績がある,というだけで,私としては勇気づけられるし,読んでいてうれしかった。もちろん,読み物としても,謎解きの要素があり,スリリングでおもしろい。

一般的な読者を想定して書かれた本なので,個々の因果推論については,論文に掲載されるように厳密な訳ではない。専門の人が読んだら,それはどうか,と思うような推論もあるのだろうな,とは思う。ただ,その分野で一流と呼ばれる人たちというのは,このような「大きな問い」に対する答えを提示できる限られた人たちであるのだから,厳密さを少し犠牲にしてでも,このような大きな問いへの答えを一般の人も理解できる形で提示すべきだ,と考えていたのだろう。その姿勢にも感服する。

本書の最後に,歴史科学の方法論の記述があった。自分にとっても勉強になる部分だったので,要旨を以下にまとめておく。

科学としての人類史(Jared Diamond,1997,訳,下巻,pp.395-404,抜粋)

歴史から一般則を導き出すのは,惑星の軌道から一般則を導き出すことよりも難しい,ということは否定できない。しかし,難しいけれども絶対に不可能とは思えない。

歴史科学に属する学問は,物理学,科学,分子生物学などの自然科学と一線を画す特徴を多く共有している。これらの共通点のうち,おもだったものは,方法論原因・結果の因果律による説明予測性複雑性の4つであると私は思う。

過去にあった事物を研究の対象とする歴史科学では,実験を通じてではなく,観察や比較を通じてデータを収集しなければならない。いわゆる大自然の実験を通じて研究しなければならないのだ。

歴史科学は,直接的な要因と究極の要因の間にある因果関係を研究対象とする学問である。物理学や化学では,「究極の要因とか,目的とか,作用」といった概念が意味を持つことはない。しかしこれらは,一般的な生物系を理解する上で,特に人間の活動を理解する上で不可欠な概念である。

歴史科学と非歴史科学は予測性においても異なる。化学や物理学では,予測性のあるなしを現象解明の判断基準にしている。そして,進化生物学や歴史学はこの判定基準い合格しないように見える。(中略)歴史科学では,結果からさかのぼる説明は可能であっても,先験的な説明は難しい。

予測を立てようとする試みを複雑にしているのは,歴史というものが持っている特性である。(中略)人間社会や恐竜の生態系は非常に複雑であり,そこには様々な要因がかかわっている。しかもそれらの要因は相互にフィードバックし合っている。その結果,低レベルにおけるわずかな差違が,高レベルのける創発的な変化につながってしまうこともある。

氷河,星雲,ハリケーン,人間社会,生物種,有性生殖種の個体や細胞の1つひとつはすべてユニークな(唯一無二の)存在である。どれもが様々な要素によって成り立っており,様々な要素の影響かにあるからである。(中略)物理学者や化学者は,巨視的なレベルで普遍的な法則を引き出すことができる。しかし,生物学者や歴史学者は,統計的な傾向しか引き出せない。

歴史は,究極的には決定論的であるが,その複雑性と予測不可能性は因果の連鎖があまりにも長すぎることで説明できるかもしれない。

歴史学者が人間社会の歴史の変遷のなかから因果関係を引き出すのは困難だといえる。程度の差こそあれ,これらは実験的に操作して再現試験をおこなうことのできない分野であり,構成要素が非常に多岐にわたる複雑な分野である。どのような創発的属性が登場するかや,将来何が起こるかを予測するのが難しい分野でもある。しかし,歴史の研究においても,短い時間の小規模な出来事が何百万回も起こった結果,もたらされる独特な特徴が均一化するような長い時間的尺度や空間的尺度の中での予測は十分可能である。これは他の歴史科学においても同じである。

研究手法として有用なのは,データを比較検討する方法であり,大自然の実験から学ぶ方法である。(中略)原因因子をもっていると推定される要因を持っているものと,持っていないものを比較検討することはできる(あるいは,原因因子とすいてされる要因の栄光が強いものと弱いものを比較検討することはできる)。

大自然の実験から学ぶ手法は,もともと方法論的な批判と無縁なものではない。(中略)方法論上のこうした問題のいくつかは,ある種の歴史科学ではすでに詳細に議論されている。(中略)疫学者は,人間社会を研究する歴史学者が直面する同じ問題にどう対処すべきかを形式かしており,その手順をずいぶ以前からうまく用いている。

地頭

7月18日(水)


「地頭がよい」という言い方は,正式な日本語ではないのだろうけど,おおよその意味は通じるのではないかと思う。努力して頭がよくなったのではなくて,もともとの頭がよい,という意味。小中学校の頃に,ほとんど努力しないにもかかわらず,すごく成績のよい人がいたし,苦もなく東大や京大に入ってしまう人もいる。研究者の世界でいうと,私たちが努力しても全く歯が立たない,あるいは,最初からお手上げで,努力さえ断念してしまような問題を華麗に解いてしまう人たちである。天才,というと,ちょっと大げさすぎるのだけど,言葉の意味としては近いのかもしれない。こういうに出会うと,「ああ,この人とは生きている世界が違うなぁ」と感じることになる。

私のいる経営学の分野にも,地頭がよいなぁと感じる先生方が何人かいる。でも,経営学(だけじゃないかもしれないけど)という分野は,少なくとも日本においては,地頭がよくなくても,一応この職業を続けることができるし,努力さえ怠らなければ,そこそこ学会でも活躍できるのではないか,というの私の持論だ。経営学の場合,もちろん,数学や統計学,論理的な説明の理解など,頭の良さが問われる側面はある。でも例えば,インタビュー調査や共同研究を進める上ではコミュ二ケーション能力を問われるし,現実に起こっている多様な経営現象を理解するためには,学問的な知識だけでなく,継続的に社会的な情報を収集しなくてはならない(いくら頭がよくても,初めて行く異国の社会状況は1日では理解できない)。つまり,頭の良さ以外の要素が研究者の能力の結構な部分を占めることになるので,地頭がよくなくても一応経営学者としてご飯を食べていくことができる,ということである。他の分野のことはあまりわからないけど,経済学ではたぶんこうはいかない,と思う。

しかし,イギリスに来て,あるいは,海外の学会に参加するようになって感じるのは,世界のトップは,地頭のよい人たちが,その他必要な能力も携えながら,しかも努力し続けているんだなぁ,ということである。トップジャーナルには,地頭のよさそうな人が,それこそ何年もかかるような地道な調査から結論を引き出している研究が多い。また,学会ですごく的確な質問をするなぁ,と思って,年齢を聞いてみると,私よりずいぶん年下だったりする。はぁ・・とため息しか出ない。

正直,日本ではこういうことを感じることは少ない。地頭タイプではなくて,その他能力タイプが圧倒的に多い。このことは今まではあまり気にならなかったのだけど,最近は,本当に地頭のよい人たちが日本の経営学の世界にはいってきていないからではないか,と思うようになった。昔からそうなのかもしれないし,地頭のよい人の割合が多くないのは当たり前だともいえる。でも,今後,日本の経営学が世界の中で少しでも存在感を高めようと思えば,地頭がよくて,なおかつ,経営学に必要な能力を備えている人たちをもっと呼び込まないといけないはずだ。

そのためには,研究者,大学の先生という職業の魅力を今よりも高めないといけない。報酬と労働環境を改善しないといけないのはもちろんだけど,社会とのつながりをもっと強くして,その能力がきちんと社会に貢献することを示し,社会からリスペクトされる存在にならないといけないのではないか。でも日本の大学を取り巻く状況は,どちらかというと逆の方向に動いている。特に労働環境(仕事量の多さ)は悪化の一途をたどっている。日本の経営学の将来は暗い・・・という結論しか出てこない。

ちなみに,当たり前だけど,世界にもその他能力タイプの人たちはいる。発表時間20分,といわれているのに10分で終えて,厳しい質問が出ても適当にしか答えない。ようやく終わって,落ち込んでいるのかと思ったら,共同研究者と笑顔で握手している。有名な学会で報告する,ということが主たる目標なのだろう。だから日本だけが特殊な訳ではないとは思うのだけど,それでももっと地頭のよい人よカモン・・・と思わずにはいられないのです。