銃・病原菌・鉄

7月24日(火)


ジャレド・ダイヤモンド「銃・病原菌・鉄」を読了。こんなすごい本をゆっくり読めて幸せ。

本書の問題意識は,次のような形で明確に示される。「現代世界における各社会間の不均衡についての疑問。世界の富や権力は,なぜ現在あるような形で分配されてしまったのか?なぜほかの形で分配されなかったのか?たとえば,南北アメリカ大陸の先住民,アフリカの人々,そしてオーストラリア大陸のアボリジニが,ヨーロッパ系やアジア系の人びとを殺戮したり,征服したり,絶滅させるようなことが,なぜ起こらなかったのだろうか」。そして,その答えは簡潔に述べると次のようになるという。「それは,人びとのおかれた環境の差違によるものであって,人々の生物学的な差違によるものではない」。難しい問題にも関わらず,論旨は明快。難しい問いへの解答が,簡単な論理の積み重ねで説明されている。謎解きはかくあるべし,だよなぁ。

この本は米国の「ピュリッツァー賞」,日本の「コスモス国際賞」を受賞し,さらに朝日新聞の「ゼロ年代の50冊」のベスト1に選ばれている。著者のジャレド・ダイヤモンド氏は,カリフォルニア大学ロサンゼルス校の医学部教授のようであるが,肩書きは,生理学者,進化生物学者,生物地理学者となっている。実際,この本では,考古学等のいわゆる歴史科学(本書にならって,そのように記述する)の知識だけでなく,植物に関する遺伝子学,分子生物学,生物地理学,動物(家畜)に関する行動生態学,病原菌に関連する分子生物学,疫学,さらに言語学,文化人類学,等々といった多くの学際的な研究成果を統合する形で,論が進められている。この博学,広い分野の研究業績を理解し,統合し,明確な結論を導く著者の力量は,驚嘆の域を超えている。こんな仕事ができる人がいること自体が信じられない。

この本の特徴は,上記のような歴史科学に関する問いを,明快な因果関係の連鎖として説明していることである。上巻p.153ページには,本書の問いに関する因果関係を示した図が存在し,鳥瞰図の役割を果たしている。歴史科学という分野の中で,このように因果関係を明確に特定している業績がある,というだけで,私としては勇気づけられるし,読んでいてうれしかった。もちろん,読み物としても,謎解きの要素があり,スリリングでおもしろい。

一般的な読者を想定して書かれた本なので,個々の因果推論については,論文に掲載されるように厳密な訳ではない。専門の人が読んだら,それはどうか,と思うような推論もあるのだろうな,とは思う。ただ,その分野で一流と呼ばれる人たちというのは,このような「大きな問い」に対する答えを提示できる限られた人たちであるのだから,厳密さを少し犠牲にしてでも,このような大きな問いへの答えを一般の人も理解できる形で提示すべきだ,と考えていたのだろう。その姿勢にも感服する。

本書の最後に,歴史科学の方法論の記述があった。自分にとっても勉強になる部分だったので,要旨を以下にまとめておく。

科学としての人類史(Jared Diamond,1997,訳,下巻,pp.395-404,抜粋)

歴史から一般則を導き出すのは,惑星の軌道から一般則を導き出すことよりも難しい,ということは否定できない。しかし,難しいけれども絶対に不可能とは思えない。

歴史科学に属する学問は,物理学,科学,分子生物学などの自然科学と一線を画す特徴を多く共有している。これらの共通点のうち,おもだったものは,方法論原因・結果の因果律による説明予測性複雑性の4つであると私は思う。

過去にあった事物を研究の対象とする歴史科学では,実験を通じてではなく,観察や比較を通じてデータを収集しなければならない。いわゆる大自然の実験を通じて研究しなければならないのだ。

歴史科学は,直接的な要因と究極の要因の間にある因果関係を研究対象とする学問である。物理学や化学では,「究極の要因とか,目的とか,作用」といった概念が意味を持つことはない。しかしこれらは,一般的な生物系を理解する上で,特に人間の活動を理解する上で不可欠な概念である。

歴史科学と非歴史科学は予測性においても異なる。化学や物理学では,予測性のあるなしを現象解明の判断基準にしている。そして,進化生物学や歴史学はこの判定基準い合格しないように見える。(中略)歴史科学では,結果からさかのぼる説明は可能であっても,先験的な説明は難しい。

予測を立てようとする試みを複雑にしているのは,歴史というものが持っている特性である。(中略)人間社会や恐竜の生態系は非常に複雑であり,そこには様々な要因がかかわっている。しかもそれらの要因は相互にフィードバックし合っている。その結果,低レベルにおけるわずかな差違が,高レベルのける創発的な変化につながってしまうこともある。

氷河,星雲,ハリケーン,人間社会,生物種,有性生殖種の個体や細胞の1つひとつはすべてユニークな(唯一無二の)存在である。どれもが様々な要素によって成り立っており,様々な要素の影響かにあるからである。(中略)物理学者や化学者は,巨視的なレベルで普遍的な法則を引き出すことができる。しかし,生物学者や歴史学者は,統計的な傾向しか引き出せない。

歴史は,究極的には決定論的であるが,その複雑性と予測不可能性は因果の連鎖があまりにも長すぎることで説明できるかもしれない。

歴史学者が人間社会の歴史の変遷のなかから因果関係を引き出すのは困難だといえる。程度の差こそあれ,これらは実験的に操作して再現試験をおこなうことのできない分野であり,構成要素が非常に多岐にわたる複雑な分野である。どのような創発的属性が登場するかや,将来何が起こるかを予測するのが難しい分野でもある。しかし,歴史の研究においても,短い時間の小規模な出来事が何百万回も起こった結果,もたらされる独特な特徴が均一化するような長い時間的尺度や空間的尺度の中での予測は十分可能である。これは他の歴史科学においても同じである。

研究手法として有用なのは,データを比較検討する方法であり,大自然の実験から学ぶ方法である。(中略)原因因子をもっていると推定される要因を持っているものと,持っていないものを比較検討することはできる(あるいは,原因因子とすいてされる要因の栄光が強いものと弱いものを比較検討することはできる)。

大自然の実験から学ぶ手法は,もともと方法論的な批判と無縁なものではない。(中略)方法論上のこうした問題のいくつかは,ある種の歴史科学ではすでに詳細に議論されている。(中略)疫学者は,人間社会を研究する歴史学者が直面する同じ問題にどう対処すべきかを形式かしており,その手順をずいぶ以前からうまく用いている。

地頭

7月18日(水)


「地頭がよい」という言い方は,正式な日本語ではないのだろうけど,おおよその意味は通じるのではないかと思う。努力して頭がよくなったのではなくて,もともとの頭がよい,という意味。小中学校の頃に,ほとんど努力しないにもかかわらず,すごく成績のよい人がいたし,苦もなく東大や京大に入ってしまう人もいる。研究者の世界でいうと,私たちが努力しても全く歯が立たない,あるいは,最初からお手上げで,努力さえ断念してしまような問題を華麗に解いてしまう人たちである。天才,というと,ちょっと大げさすぎるのだけど,言葉の意味としては近いのかもしれない。こういうに出会うと,「ああ,この人とは生きている世界が違うなぁ」と感じることになる。

私のいる経営学の分野にも,地頭がよいなぁと感じる先生方が何人かいる。でも,経営学(だけじゃないかもしれないけど)という分野は,少なくとも日本においては,地頭がよくなくても,一応この職業を続けることができるし,努力さえ怠らなければ,そこそこ学会でも活躍できるのではないか,というの私の持論だ。経営学の場合,もちろん,数学や統計学,論理的な説明の理解など,頭の良さが問われる側面はある。でも例えば,インタビュー調査や共同研究を進める上ではコミュ二ケーション能力を問われるし,現実に起こっている多様な経営現象を理解するためには,学問的な知識だけでなく,継続的に社会的な情報を収集しなくてはならない(いくら頭がよくても,初めて行く異国の社会状況は1日では理解できない)。つまり,頭の良さ以外の要素が研究者の能力の結構な部分を占めることになるので,地頭がよくなくても一応経営学者としてご飯を食べていくことができる,ということである。他の分野のことはあまりわからないけど,経済学ではたぶんこうはいかない,と思う。

しかし,イギリスに来て,あるいは,海外の学会に参加するようになって感じるのは,世界のトップは,地頭のよい人たちが,その他必要な能力も携えながら,しかも努力し続けているんだなぁ,ということである。トップジャーナルには,地頭のよさそうな人が,それこそ何年もかかるような地道な調査から結論を引き出している研究が多い。また,学会ですごく的確な質問をするなぁ,と思って,年齢を聞いてみると,私よりずいぶん年下だったりする。はぁ・・とため息しか出ない。

正直,日本ではこういうことを感じることは少ない。地頭タイプではなくて,その他能力タイプが圧倒的に多い。このことは今まではあまり気にならなかったのだけど,最近は,本当に地頭のよい人たちが日本の経営学の世界にはいってきていないからではないか,と思うようになった。昔からそうなのかもしれないし,地頭のよい人の割合が多くないのは当たり前だともいえる。でも,今後,日本の経営学が世界の中で少しでも存在感を高めようと思えば,地頭がよくて,なおかつ,経営学に必要な能力を備えている人たちをもっと呼び込まないといけないはずだ。

そのためには,研究者,大学の先生という職業の魅力を今よりも高めないといけない。報酬と労働環境を改善しないといけないのはもちろんだけど,社会とのつながりをもっと強くして,その能力がきちんと社会に貢献することを示し,社会からリスペクトされる存在にならないといけないのではないか。でも日本の大学を取り巻く状況は,どちらかというと逆の方向に動いている。特に労働環境(仕事量の多さ)は悪化の一途をたどっている。日本の経営学の将来は暗い・・・という結論しか出てこない。

ちなみに,当たり前だけど,世界にもその他能力タイプの人たちはいる。発表時間20分,といわれているのに10分で終えて,厳しい質問が出ても適当にしか答えない。ようやく終わって,落ち込んでいるのかと思ったら,共同研究者と笑顔で握手している。有名な学会で報告する,ということが主たる目標なのだろう。だから日本だけが特殊な訳ではないとは思うのだけど,それでももっと地頭のよい人よカモン・・・と思わずにはいられないのです。

ティファニーで朝食を


7月11日(水)

先月は今月初旬のアムステルダムの学会に向けて,発表のパワーポイントをつくって,その英文をチェックしてもらい,その後発表の練習,というスケジュール。共同研究者のS先生と頻繁に連絡を取りながら,最終調整。本番の学会では,チェアにも当たっていたのだけれど,そこで結構なミスを犯し,かなりへこむ。研究発表は無難におこなったのものの,日本でもいつも厳しい指摘をしてくれるM先生から,やはり厳しい質問を受けて,しばし沈黙。しどろもどろの英語でしのげたのが,せめてもの救いか。最終日,最終セッションの最後の発表,ということで,アムステルダムの視察はほとんどできず。いずれまたいくことがあるだろうか?写真はアムステルダム中央駅の夜景。きれいに撮れた。




というわけで,今はちょっと息抜き,という感じでぼちぼち暮らしている。6月はなんとなく体調も優れなくて,フラストレーションがたまったこともあるし,今は積年の疲れをとりたいなぁ,と思っている。イギリス生活にもまあ慣れてきたし,無理しない生活もたまにはいいのではないか・・・,と。

ちょっとだけ読書メモ。

カポーティ「ティファニーで朝食を」
文章がきれい。まずはそれが印象に残る。ストーリーは「気ままな女性に振り回される男性もの」の原点,とも言うべき内容。「東京ラブストーリー」も「猟奇的な彼女」(見てないけど)も,ここに源流があるのかなあ。「イノセンス」という概念も,この小説を通して読むとすすっと理解できる。その他の短編も,すごくよい。完成度の高い中・短編集。

青木幸弘「消費者行動の知識」
消費者行動の本をゆっくりと読むのはいつ以来なんだろう・・・。すごくわかりやすい消費者行動論の入門書。良書。せっかく時間があるから,もう一度勉強しておこう。もう一生のうちに消費者行動論を勉強するときもないかもしれないしな。

今は「銃・病原菌・鉄」の下巻を読んでいる。これもすごい本だ。