ドミノ

6月29日(金)

今日は朝からすごくいい天気で,暑い。まだ6月だけど梅雨が明けそう。妻は発言の8割が「暑い」に関係することで,そうとう堪えている様子。暑さに慣れるまでは,ぼちぼちやらないとなぁ。ゆっくりでも前に進み続けることが肝心だ。

恩田陸「ドミノ」をちょっと前に読了。米原万里さんのこの本を読んで購入したもの。東京駅の周辺で別々に行動している27人と1匹(動物。ネタバレするので種類は書かないが)が,やがて1つの事件にそれぞれに巻き込まれていく。別の人たちの,一見関連しない話を次々に読んでいく形になるが,「いずれ繋がるんだよな・・・」と思いながら,巧妙に書きわけられているそれぞれのストーリーを読んでいくのは,楽しい。

ただ,同種の小説としては「ラッシュライフ」の方が,完成度が高いかな,と思った。恩田さんの作品の方が先で,それ以前には同じような形の小説はなかったようだから,仕方ないところもあると思うんだけど。あと若い人の会話部分のちょっとわざとらしい感じが,やや気になる(「夜のピクニック」の時も感じたんだけど・・・)。男性と女性の感じ方の違いが影響しているのかもしれない。

前期終了まであと1ヶ月。乗り切ろう。

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです

6月24日(金)

ぼちぼちと読み進めてきた,村上春樹インタビュー集「夢をみるために毎朝僕は目覚めるのです」を先日読了した。ずいぶん長い時間を掛けて読んできたので,ややぼやっとしているところもあるのだけれど,やはりポイントは村上氏の物語の作り方にあると思う。

表題にあるように,村上氏の物語の作り方とは,夢を見るように自分自身の奥深いところに「降りていく」ことによって,物語を「紡ぎ出す」という感じかと思う。インタビューの中によく出てくるのは,自分でも予想だにしない登場人物が生まれたり,ストーリーが展開されたり,といったプロセスがよくあるということ。だからこそ,作者がどのような意図をもってその人物やストーリーを展開したか,を作者に問うことは無意味であり,テキストは作者を含めたすべての人に平等に開かれている,というのである。

私が論文を書くときは,当たり前だけど,自分の論理的な能力をフル回転させ,メッセージが明確に伝わるように慎重に言葉を選び,構成を練るし,それがすべてである。小説だって,ある程度そうやってできるもんだろう,と思っていたのだ。漠然と。もちろん,登場人物の性格や設定を決めれば,そこからストーリーが半ば自然に展開されることがあったとしても,登場人物の設定自体が何かの意図を明示的にもたずに,半ば無意識のような状態の中から立ち上がる,というのは,想像を超えることだ。さらに,そのようにして作られた氏の作品が,私だけでなく,世界中の人たちを惹きつけるのだから,二重に驚かされる。

ただ,論文を書くときにも,直感的に,あるいは,ずっと考え続けているうちに,自然と中心的な概念が整理される,ということもあるから,それを突き詰めていくと,氏のような文章の作り方になるのかな・・・とも思える。未知の自分をテキストの作成にどのように活かすのか,という問題なのだろうか。

手法はさておき,「ノルウェイの森」や「国境の南,太陽の西」のようなリアリズムの文体を用いた新作を期待している人が多いのではないか,と思うのだけど。将来的にもう1作ぐらい,あるかな・・・?

超「超」整理法

6月22日(水)

論文の仕上げが終わって仕事が一段落したのだけれど,なんとなく体が重い日々。やはり目玉になる仕事がないと,小さな失敗やプレッシャーに過剰に反応してしまい,全体的に調子があがらないのかもしれない。ここのところ,授業でもミスが多い気がするが・・・。でも,考えてみればいつもミスばかりしているからな・・・。気のせいだ,おそらく。

いろんな人と話をしていると,ポロっとうれしいことを聞くこともある。ちょっとした仕事に感謝してくれたり,愚痴みたいな話をありがたがったくれたり,アイディアをほめてもらったり。そうそう,子供とプールに行ったら,すごくうれしそうで,そういうのも日々の生活に力を与えてくれる。ぼちぼち,気持を盛り上げていかないと。

野口悠紀雄「超「超」整理法」を読了。野口先生のファンで,「超」整理法を実践している私としては,もっと早く読むべき本だったが,ようやく。今回も随所に発見があった。基本的に野口先生は,とてもせっかちなんですね。私たちが気づかないところにストレスを感じるから,工夫が生まれ,新しい整理法ができる。その恩恵に与ることができる,というのは,非常にありがたい。以下,読書メモ。

・分類するな,検索せよ。
・Gメールをデータベースにする。メールで何でも送って,グーグルに保存。
・検索は,仮説を立てて,and検索。
・知的作業に重要なプロセスは,問題設定,仮説の構築,モデルの活用,の3つ。
・知識が増えれば,能力は高まる(視野が広がる)。
・新しいメッセージ(問題設定と仮説)を得るには:考え続ける。とにかく始める。歩く。寝る。材料が詰まっていれば,環境が少し変化したところでアイディアが得られる。

本書に紹介があるグーグルのディスクトップ検索はすごい威力。PC内の検索はこれでだいぶ楽になるな。

春の出来事メモ

6月10日(金)

昨日は1日中ゼミをやっていた。25名の卒論を指導するというのは,やっぱり大変なのだけど,まずは体力的な部分が予想以上にキツイ。それに誰に何を指示しているのかを忘れるし。いやはや,まだまだ苦労は続きそうだなぁ。ゼミ懇親会は16名参加で,それなりに盛り上がった印象。よかった。

今週の頭からフェイスブックをやり始めて,なんとなく仕組みがわかってきた。それに,野口悠紀雄氏の「超「超」整理法」を読み始めて,早速Gメールにメールを転送するようにした。というわけで,最近はやけにネットづいている感じ。少し生活や仕事のスタイルが変わる?かも。

4月後半から今までにあったことメモ。

・1期生と同窓会。楽しく過ごせる。
・A被服で久々に報告。研究はいったん終了するけど,組合関係で今後もおつきあいができそう。うれしい。
・某学会全国大会が香川で。S先生が今年で退官とのことで,やや寂しい。
・ゼミOBのK君,上司とともに研究室に。企業では優秀社員として評価されている様子。いいぞ。
・小学校で運動会。徒競走,娘はスタートに失敗・・・。
・ゴールデンウィークは産地の論文書き。その後論文は完成。ちょっとした満足感に浸る。
・別の学会全国大会は熊本で。2つの発表に関わり,大忙し。まあ,一応の成果ありか。熊本はよい街と再認識。しかし,疲れが半端なく,その後3年ぶりぐらいに風邪を引いた。
・ゼミOG,Cさんの再就職をお世話。うまくいくといいけど。

読んだ本もメモ。それなりにおもしろい本が多かったし,ここに詳しく書きたい本もあったんだけど・・。時間なし。

佐藤優「私のマルクス」
思想的自叙伝とのこと。驚愕の幼少時代から学生時代。高校時代にソ連・東欧へ単独旅行。1975年ですよ!学生時代の活動や勉強量も半端ない。外交官時代も,ロシアの大学で授業するとか,宗教学の翻訳本を出すとか・・・大学教員からすると,立場がなく,何も言えない。

岡野雅行「人生は勉強より「世渡り力」だ」
「痛くない注射針」を開発した岡野工業社長の人生哲学。周辺にはない価値観で,いろいろ思うとおろはあった。人つきあいへの投資を惜しむな。人と違うことををやり抜け。自己演出で人を引きつけろ,といったところがメッセージか。理解はできるものの,実践できるかどうかは,また別問題。

内田樹「下流志向」
不機嫌を取引している若者,という指摘は,新鮮だった。確かに,対人関係において,不機嫌な態度をとると,相手がそれを緩和させるように行動を取る可能性があり,有利に関係を構築できる可能性がある。不幸を呼ぶ取引。学習という行為の性質についても,よく理解できる。なんの役にたつのかわからないけど学ぶ,というのが学びの本質である。

大村はま・刈谷剛彦・夏子「教えることの復権」
一昨日ブログに書いたとおり,すばらしい教育論。教員は教えないとダメだ!学生が興味をもつような授業を組み立てるべし。とても勉強になった。

夏目漱石「彼岸過迄」
世間的には構成に難がある,とか言われているようだが,私としては大変おもしろく読んだ。それぞれの登場人物が立っているし,それに繋がるエピソードの作り方が秀逸。個人的には「報告」の章が一番おもしろかった。

教えることの復権

6月8日(水)

授業関係で書いた文章。貼り付けておこう。

学びの復権は教員から

大学院を共に過ごし,現在は大学教員になっている同僚と飲みに行くと,よく話題になるのは「大学院時代は辛かった」という話である。「引きこもり状態になり携帯が鳴っても出ない」,とか,「研究発表の前になると,病気にならないかと期待するようになる。発表をキャンセルできるから」,とか。一種の不幸自慢であり,関係のない人が聞くとあまり気持のいいものではないかもしれないが,当事者同士は非常に楽しく,盛り上がる。もちろん,現在はお互いに職を得て,曲がりなりにも安定した生活を送っているから笑えるのではあるが。

ところで,大学院時代は,なぜこのように辛いのか。いろいろな理由はあるのだが,一番辛いのは研究がうまく進まないことである。将来,大学に職を得られるかどうかは博士の学位を取れるかどうか,あるいは,よい研究論文を書けるかどうかにかかっている。しかし,それはたいていうまくいかない。七転八倒の苦しみを経て,ようやく1本の論文を書き上げると,また次の論文に取り組む,というプロセスが大学院の5年間,ずっと続くのである。「入院」と言われるのも,あながち誇張ではない。

飲み会の席では,さらに大学院の教育に話が至ることが多い。つまるところ,大学院が辛いのは,教育の方法に原因があるのではないか,という話である。簡単に言えば,私たちが受けてきた大学院の教育とは「ここまできなさい型」である。世の中にはすばらしい研究があり,それを本として読むことができる。そして「求められる水準はこれです。この水準まで研究を進めなさい」という指示がでる。しかし,どうやってその水準にまで行けばいいか,については,極めて抽象的にしか示されない。具体的な研究プロセスの中で,大学院生自身が次に何をどのようにすればいいのか,つまり,インタビューに行けばいいのか,もっと文献を読んだ方がいいのか,アンケートをすればいいのか,といった具体的な判断は,多くの場合大学院生自身に任されている。だから判断するプロセスで悩む。またその判断を間違えると1からやり直しとなることも多い。引きこもりなっても全くおかしくない。

しかし,大学院は大学教員を希望する人たち,いわばプロ予備軍が集う場所であるので,このような方法によって個々の研究者が大きく能力を飛躍させるケースも多い。そこで得た方法は,骨身に染みて身につき,大学教員となってからの糧となる。だからこそ,今でも多くの大学院がこの形の教育を継続しているのだろう。他方で,通常の大学生,つまり大学の学部教育において「ここまできなさい型」の教育をやると,往々にして,学生はまったくついてこない。「さあ,やりなさい。やり方から考えなさい」,というアプローチが通用しないのである。大学院でその形の教育しか受けていない大学教員には,割と多い形ではないか,と(個人的には)思っている。

前段が長くなったが,大村はま・刈谷剛彦・夏子著『教えることの復権』(ちくま新書)が説くのは,このような丸投げ型の教育は教育ではなく,教員は「教えなくてはダメだ」ということである。この本では,現在の教育の現場では,学生が自主的に考えることが重要であり,教員はあまり介入してはいけない,という考え方が蔓延していると指摘している。つまり教員が教えずに,「自分で考えなさい」と突き放してしまう教育がよしとされているケースが多いのではないか,というのである。この形は「ここまできなさい型」の大学院教育と似た側面をもっている。

考えてみれば,学生がなんの導きもなしに深く考えられることは少なく,無理にやったとしても,到達できる思考の水準は高いものにはならない。だからこそ教師からの「てびき」が求められる。考える方向性を示し,実際に考え方の例を示すことで,より効率的な学びへと導いていくのである。よい教育ができるかどうかは,学生の学びに対して,よい「てびき」を示せるかどうかにかかっている。このことを明快な形で示す本書は,一流の教育論になっていると思う。

しかし,教員としての私は「てびき」を示すことに躊躇してしまうことも少なくない。「てびき」が過剰になると,それに従ってさえおけばよい,という学生の姿勢が生まれる懸念があるからだ。「てびき」が有効に機能するのは,学生が本気になって学習する姿勢があってこそ。楽をしようとする学生が支配的な中では,いくら「てびき」を示しても,学生は指示に従って「こなす」だけになってしまう。学生が教育内容に興味をもち,緊張感をもって取り組んでいるかどうかが極めて重要なのだ。学生の姿勢によって,「てびき」はよいものにも悪いものにもなるのである。

そのように考えると,まず重要なのは,学生が緊張感をもって取り組めるような教育の仕組み,授業の仕組みだ,ということになる。現在の大学生が全体としてやる気に満ちていることはありえない。教員のアプローチの仕方が,学生の姿勢を変えるのであり,トリガーは教員の手ある。本当に身につまされる話であるが,現場の教員は気負わずにその努力を継続することが必要だろう。学びの復権も,やはり教員の手にかかっているのだ。