遠い太鼓

12月17日(土)

今日は中四国商経学会が開催される。こういったローカルな学会もちょっと困ったなぁ・・と思いながら、なかなか抜けるきっかけもなく、今に至っている。今年は勤務校での開催なので、秋ぐらいからメールの攻勢があり、それに音を上げて、発表することになってしまった。何回も会議に参加するよりは、研究発表をした方がましだろうということで。産地の研究は、やっつけでデータを回したわりには、よい結果が出ていると思う。しかし・・・とにかく忙しい。卒論の山場はまだ先の様子。ふう。

最近の出来事。年末恒例の合同庁舎での仕事。少し慣れてきたかも。幼稚園では、次女の発表会。娘の舞台上での見事なしきりっぷりに驚嘆。外面がいいのは私似か。でも幼稚園の発表会もこれで最後だな。A社での研究成果報告会も無事終える。好評だったようで、社長にもほめてもらう。在外の研究資金もいただけることになった。長い時間掛けた成果が出つつあるようでうれしい。長女と一緒に、親子作文のコンクールで入賞し、表彰式へ。でも出した人は全員賞がもらえるみたい。娘には言えないけど。その後、西宮のU氏宅へ。イギリスの生活についてアドバイスをもらう。1歳のJくんがかわいい。そうそう、学部の内部も割愛で荒れ模様。私の人生にも影響があるかもしれない。


レイモンド・チャンドラー「さよなら、愛しい人」
村上春樹訳で再読。といっても、まだ最後までたどり着かず、ラストシーン手前で止まっている。前に読んだのはいつなのか・・大学生の時だと思うけど、ストーリーについてはほとんど記憶がなかった。次から次へとエピソードが連なるものの、全体の流れがあまり釈然とせず、正直言って捉えどころがない。謎があるのか、ないのか・・??マーロウの生き様だけを味わう本、なのか。まあ、あまりまとまって読む時間がないから、仕方ないのかもしれないけど。

何回目の通読かよくわからない、著者のヨーロッパ放浪記。家にはこの本が3冊ある。最初に読んだのはやはり大学生の時で、この本の影響を受けて、卒業旅行でギリシャに行った。思えば、なかなか恥ずかしいことをしたものである。
この本の冒頭、40歳になる前の著者の感慨が述べられるのだが、私もちょうど同じような歳になっている。そして、来年は私もヨーロッパに向かう。偶然とはいえ、なんだか感慨深い。以前とは本から受ける印象も少し違う感じがある。昔、40歳前というのは、もっと大人な気がしていたけど、いざ自分がその歳になると、まだまだ子供である。当たり前のことなのかもしれないけど。私にとっても、落ち着いていろいろ考えることのできる1年になれば、と思う。

わたしを離さないで

11月18日(水)

11月も半ばを過ぎた。最近はゼミ生25名の卒論指導だけで精一杯。予想はしていたものの,いざその嵐の中に身を置いてみると,かなりしんどい。研究を進める時間は早起きしてもほとんどとれないという状況。今は目の前の仕事をこつこつ片付けていくしかないな。はぁ。

最近の出来事。インドネシアで学会発表。現地の学生とのやりとりが新鮮だった。帰国後,下痢で苦しむ。教員免許更新講習の講師で1日奮闘。ぼちぼちうまくできた。母がやってきて3泊。みんなで小豆島,寒霞渓に行くも,紅葉は全然。でも船に乗ったり,海宝に行ったりして楽しかった。次女の学習机が届く。私はレッツノートを購入。次はカメラだ。

池上彰「そうだったのか!現代史」「そうだったのか!日本現代史」
疲れている時に手に取る本としては,なかなかよい。相変わらずわかりやすいし,勉強になる。でも三宮の東横インに,日本現代史,を忘れてきてしまった。無念・・。

カズオ・イシグロ「私を離さないで」
2冊目のカズオ・イシグロ。最高傑作と名高い一冊だったが,期待通りの出来。すごくよい。インドネシアへの学会発表の時に持って行こうと思っていたが,離陸前に読み終わってしまった。とはいえ,すらすら読める,って本ではないんだけど。
設定はリアルではない。でもその基本的な前提を除けばすごくリアルっていう,この構造。小説の可能性を感じる。例えば,社会運動が盛り上がり,頓挫する,なんていう事態が小説のキーになるなんて,・・・ちょっと信じられない。
こういった小説の書き手が現れて,なおかつ評価されるってことは,社会が大人なんだろうか。日本語の書き手にも,こんなテーマで小説を書ける人がもっと出てこないかな。

「銅メダル英語」をめざせ!

10月17日(月)

後期の授業が始まって2週間ほど。最近、来年度の在外研究の大枠が固まって、ややほっとしている。なんだか慣れない交渉を続けていても、うまく進んでいるのかどうかがわからないので、常にどこかに不安感がある。こうしてある程度話が固まると、その不安感も少し和らいだようだ。なんだか情けない話だけど、寝付きもよくなった。

学生のころは、海外の大学に行こうなんて微塵も考えなかった私のこと。この歳になったって、やはりこの類のことがそれほど得意とは思えない。はっきり行って、苦手な部類だろう。常に過大な不安感があるわけではないのだけど、微妙で、漠然とした不安感が頭の片隅から離れない。そんな感じが、自分を不安定にしてきた気がする。

とはいえ、後はビザさえうまくとれれば・・・というところまできた。こんな感じで、あと半年も過ぎていくんだろうな。少しは楽しみながらできるといいけど。

以下、読書メモ。

池上彰「そうだったのか!現代史」
私にとっては2冊目の「そうだったのか」シリーズ。相変わらず読みやすい。教科書と何が違うのだろう・・・。20世紀の前半は世界大戦、後半は冷戦、という世界の流れの中で、その中心にあるのは共産主義だった、ということがよくわかる。知っている話もあるけど、詳細は知らない話が大半。現代という時代が、いかに血塗られているかを再認識させられる。

浅羽通明「アナーキズム」
普段なら多分読まないであろう、アナーキズム思想の話。確か、宮崎哲弥氏のこの本にレビューがあって、ちょっと買ってみたんだな。アナーキズムの本質は、最初の章に集約されている。アナーキズムの一方の極は「行動的アナーキズム」、つまり、一切の権力、強制の廃絶、個人の自由の完全な実現を目指す。他方の極は「啓蒙的アナーキズム」、つまり、ジョンレノンの「イマジン」のように、反戦平和を祈願する善男善女の夢想。アナーキズムが、近代の原理主義、という表現もうなずける。

古賀茂明「官僚の責任」
最近、経済産業省を辞職した元官僚(この本の執筆時はまだ官僚だった)の著書の新書版。官僚の思考パターンが説明されており、勉強になる。ただ、官僚の思考が「なぜそうなるのか」については、やや消化不良気味。また今後のあるべき施策については、この著者の価値観が前提として議論されるようなところがあり、そんな簡単に結論が出るのなら、苦労はしないけどな・・と感じさせるところもある。

林則行「『銅メダル英語』をめざせ」
著者は投資ファンドのファンドマネージャー。米国のMBAを出て、現在は「金メダル英語」を使いこなすが、以前は英語が嫌いで、その習得に試行錯誤を繰り返してきた、とのこと。英語嫌いから発想した英語習得法、ということだが、その内容はかなり参考になった。一番のメッセージは、「目指す英語によって、学習法は違う」ということ。まずは、銅メダル英語を目指し、簡単なフレーズを、日々の生活の中で使えるようになるようにスピーキングを強化。その後は、銀メダルならリーディング、金メダルならリスニングの強化へと移る。至極真っ当で、長期的な英語学習を考え得た際には、参考になることが多かったと思う。

ゴールデンスランバー

9月14日(水)

イギリスから戻って、研究会に2つ参加。時間的にやや余裕があるのだが、落ち着くような、逆にいろいろ考えすぎてしまうような、微妙な日々。出張先に携帯を忘れ、久しぶりに手帳を見ながら公衆電話を使ったら、今度はそこに手帳を置き忘れてしまうという、さんざんなミスもあり。無事手帳は発見されたけど、なんやかやとミスが多い。

最近のよかったこと。イギリス滞在が無事に終わる。頼りになる人たちと知り合いになることができた。帰国後の研究会で無事に発表を終えた。広島「八昌」のお好み焼きは、別格にうまかった。長女が県の俳句コンテストで優秀賞を受賞。それから、・・・みんな元気^^

「ゴールデンスランバー」を読了。数年前の本屋大賞受賞作。伊坂氏の本は、おそらく3冊目かな。首相殺人の容疑者にされた主人公の逃走をめぐるストーリーがメイン。著者も述べているように、わりと典型的な設定の中で話が進み、後になるほど、話に勢いが出てくる。とても面白く読むことができた。

ただ、「日の名残」を読んだ後ということもあるけど、そこで語られる人々の感情やこの世の中のとらえ方に、どっぷりつかることができない。ややテーマが軽いように感じてしまう。おもしろくはあるんだけど、本で語る必然性がもっと感じられるといいな・・・というのが正直なところ。個人的には「ラッシュライフ」の方が好きかも。



日の名残

8月31日(水)

引き続き、イギリスに滞在中。一昨日から、ニューポート・パグネル、という街にいる。来年度滞在予定のクランフィールド大学の近郊で、かつてこの大学にいた私の共同研究者が住んでいた町である。人々は穏やかで、静か。よい環境で、とてもリラックスできる。ロンドンとは異質の世界。昨日はシティセンターの裏手にある草原を1時間ぐらい歩いた。まさにイギリス、という感じの場所。



もちろん、大学にも視察を兼ねたミーティングで訪問。大学は新学期。中国人が多く目についた印象。




さて、渡航前、イギリスにどの本を持って行こうか、と考えた時に、ふと頭に浮かんだのが、カズオ・イシグロの名前だった。日本生まれだが、すぐに渡英し、英語で小説を書く。ブッカー賞受賞者で、村上春樹さんが新作を心待ちにする作家。イギリスに向けた飛行機の中で読む本として最適である。

持ってきたのは「日の名残」。第二次大戦後、英国で執事として働くスティーブンスの1人語りで話しは進む。執事としての仕事に情熱を傾け、かたくなに執事の「品格」を守ろうとするスティーブンスの仕事とそれに絡む人々との関係が淡々と語られる。前半の中心は、同じく執事であった父親との話。そして、女中頭であるミス・ケントンとのほのかな恋愛の話が最後の盛り上がりをつくる。執事の品格を守ることが彼の人生であるが故に、尊敬する父や、思いを寄せてくれる女性に人間らしく対応できないスティーブンス。悲しみがじわじわと迫ってくる、不思議な感慨のする小説である。

ただ、主人公のまじめさ、堅さは、どこか私に重なるようなところがある。おそらく小心で、大胆に自分を楽しませることができないんだけど、堅い仕事を理由に、それを正当化するような・・・そんな感じ。でも、それも悪くないんじゃないかな・・と思う自分がいたりして、難しいところである。

イギリス滞在もあと1日。台風が迫る日本に、ちゃんと帰れるだろうか・・・心配。


ロンドン街歩き

8月28日(日)

イギリスに来ている。来年予定している在外研究の下見のために、滞在予定の大学を訪れたり、家を見つけたい街の様子を見たりする予定で5日間の滞在。イギリスは初めての訪問。

昨日と一昨日は、ロンドンに滞在した。主な目的は、小売店舗の視察。できる限りの小売施設を回ろうと、地下鉄を乗り回しながら、ぐるぐると街を歩いた。2日で3万歩も歩いたのは、この携帯付属の万歩計を使い始めてからの最高値。足がすこぶる痛い。

ロンドンの街を歩いていると、いろいろなことを考えさせられる。ソウルや上海も興味深いけど、ロンドンも同じように興味深い。今日はホテル近くのケンジントン・パークを歩いて、大都会の真ん中にこれだけ大きな公園があることに、やはり驚嘆。皇居も大きいけど、この公園は一般の人が自由に入れるところが違う。日曜日だったせいか、犬の散歩をする人、ジョギングする人が多く見られた。散歩しててても、どうも風景から浮いている気がして、やや落ち着かないけど、気持ちよい散策ができる。


ケンジントン・パーク

小売施設の方もなかなか。老舗百貨店・ハロッズも、いろいろ探せば語り尽くされているのだろうけど、すごく印象に残った。この大都会の真ん中で、未だに家具や家電を売っている百貨店があるとは・・・。おそらく、郊外の巨大家電量販とか、家具のディスカウンターなどが未発達なんだろうけど、それでもあの光景は印象的だった。写真は、もう1つの老舗百貨店、リバティ。こちらは、百貨店というより、品のいいファッションビルみたい。たぶんフロアは、109の半分ぐらいかな。


リバティ

老舗の百貨店の戦略としては、「観光客用の購買の場所」として確立しているところが共通しているよう。これは日本の百貨店は学ぶところが多いのではないかと思う。大阪・梅田の百貨店なんか、あれだけ集積させて同質的な競争をしているのだから、1店でもグローバルに集まる観光客に向けたフロアを作ればいいのに、と思う。日本伝統の織物、小物、盆栽なんかを集めたフロアを作れば、海外のお客さんは大喜びだと思う。

それに、おもちゃの店、ハムレイズ(Hamleys)の店内演出もよかった。多数の店員が、フロアでおもちゃの実演をして、子供を楽しませると同時に、おもちゃの魅力を伝えるマーケティングもおこなっている。ディスニーランドみたいな楽しい雰囲気があるし。あれは日本でも受けるだろうし、日本人はあの手のサービス、得意だと思うんだけど。

その他にも、セビル・ロウ(オーダーメイドのスーツの聖地)やイギリスおみやげの専門店(あんなのが東京や高松にあってもいいね)なんかも回って、いろいろ勉強になった。でも、一言書いておくとすると、ロンドン街歩きは、仕事的には興味深いんだけど、個人的にはあまり「おもしろい」とは感じない、ということ。この歳になって1人で異国の街を歩いていても、心の底からfunnyとしての「おもしろさ」は感じないんですね。家族や友達と語り合うことのできない異国の街は、そういう意味で、どうというところのない場所である。寂しいような、幸せなような、複雑な心持ちのする異国の街歩きだった。

英字新聞1分間リーディング

7月30日(日)

Facebookを初めて,2ヶ月ぐらい。あまり自分の情報を出すこともないし,友達もあまり増えないんだけど,皆さんのつぶやきや写真を見て,ぼちぼち楽しんでいる。仕組みや特徴は,おおよそ分かった気がする。

Facebookを見ていてしみじみ思うのは,人それぞれに日常があり,交友関係があり,喜怒哀楽があるのだな・・・ということ。天気のよい日に飛行機に乗ると,地上が見渡せて,「この広い世界の中に,ものすごく多くの人々の生活があるのだな」と漠然と思うことがあるけど,Facebookでは,その一部を具体的に見せられている感じ。世界では1人1人の生活の中で,ほんっっっっとにいろんなことが起こっているのだ。当たり前だけど。ただ,それらを見ている私自身は,気分的に軽く落ち込むことが多いような気がする。私と違ってアクティブな人たちの生活が垣間見えるからだろうな。

ようやく授業も終わり,生活は落ち着いてきている。散漫な読書が続いていたが,少しペースも変わってくるかもしれない。

ホーマン由佳「英字新聞1分間リーディング vol.1,vol.2」
THE NIKKEI WEEKLYの中から選ばれた記事の,記事タイトルと冒頭1パラグラフだけが抜粋されており,主要な単語の意味と本文訳が載っている。非常に簡単な構成であるが,英語の語彙を増やすのに最適だ。最初はわからない単語が多いが,徐々に既知の単語が増加してきて,確実に語彙が増えていくのがわかる。今はvol.2の記事を1日2つぺースで読み,すでに読了したvol.1の記事をトイレで読み返して,復習している。何回か同じ単語を目にしていくうちに自然と覚えてしまう,というのが,英単語記憶の王道なのだと実感する。

大竹文雄「競争と公平感」
大阪大学の有名な経済学者が,経済学の考え方を一般向けに解説した読み物。行動経済学が専門だと思うが,その項が一番充実していると思う。はっきり言って経済学がいまいち理解できていない私のような人間にとってはよい本だが,議論はもう少し掘り下げてもいいかな,とも思う。

新谷弘実「病気にならない生き方 -ミラクル・エンザイムが寿命を決める-」
牛乳は健康によくない,と言って,業界を騒がせた本。著者は実績のあるお医者さんのようだが,本を読んだ感じは,なんだか怪しさがぬぐえない。ミラクル・エンザイムって,おそらく学術用語じゃないだろうし,ネーミングとしてどうか・・・。経歴から見ると,腸をよく見ているってことだから,腸に関することは信用してもいいのか?レビューを見ても,そんな指摘が多い様子。とりあえず,長年食べていたヨーグルトは,食べていても胃腸の調子が改善されないので,著者の言うようにやめてみた。今のところ,特に腸の状態に変化はなし。うむむ。

イギリス近代史講義

7月11日(月)

昨日は,神戸に日帰り出張で,今日は疲れぎみ。ぼちぼち明日の授業の準備をしないと・・・。授業もあと2週間とちょっと。なんとか乗り切らなくては。

イギリスに行くまでに,イギリスと日本に関わる本をいろいろ読んでおきたい。川北稔「イギリス近代史講義」は,うってつけの本だ。イギリスの近代史について,いろいろな観点のことが「ざっくり」書かれている。歴史学者っていうと,資料の取り扱いから解釈まで,非常に厳密におこなう印象をもっていたけど,これは良い意味でざっくり。著書の最後にもこんな記述がある。「歴史を単語の暗記などではなく,大づかみにとらえる見方の一例となれば幸いです」(p.264)。このスタンスはいいですね。

キーワードとしては,「都市化」,「世界システム論」,「成長パラノイア」,などいろいろあるだけれど,やはり「イギリス衰退論争」をとりあげた最終章が一番興味深い。現在の有力な学説では,「イギリス経済の本質は,産業資本主義(つまり「ものづくり」)ではなく,ジェントルマン資本主義,つまり,資産を他人に貸し付けることで利益を得る地主・金融資本的なものにある」(p.243)ために,現在でもシティが元気なイギリスは衰退などしていない,ということなのだそう。う~ん・・・そうなのか・・。

日本はあきらかに「ものづくりの国」だから,この論理でいけば,ものづくりが衰退すれば,衰退ということになる。そうなると,他国と競争のできる「ものづくりのコア」をどこにもっていけばいいのか・・・。地方の産地にそれを求めるのは,やはり無理のなのかなぁ・・・。

ドミノ

6月29日(金)

今日は朝からすごくいい天気で,暑い。まだ6月だけど梅雨が明けそう。妻は発言の8割が「暑い」に関係することで,そうとう堪えている様子。暑さに慣れるまでは,ぼちぼちやらないとなぁ。ゆっくりでも前に進み続けることが肝心だ。

恩田陸「ドミノ」をちょっと前に読了。米原万里さんのこの本を読んで購入したもの。東京駅の周辺で別々に行動している27人と1匹(動物。ネタバレするので種類は書かないが)が,やがて1つの事件にそれぞれに巻き込まれていく。別の人たちの,一見関連しない話を次々に読んでいく形になるが,「いずれ繋がるんだよな・・・」と思いながら,巧妙に書きわけられているそれぞれのストーリーを読んでいくのは,楽しい。

ただ,同種の小説としては「ラッシュライフ」の方が,完成度が高いかな,と思った。恩田さんの作品の方が先で,それ以前には同じような形の小説はなかったようだから,仕方ないところもあると思うんだけど。あと若い人の会話部分のちょっとわざとらしい感じが,やや気になる(「夜のピクニック」の時も感じたんだけど・・・)。男性と女性の感じ方の違いが影響しているのかもしれない。

前期終了まであと1ヶ月。乗り切ろう。

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです

6月24日(金)

ぼちぼちと読み進めてきた,村上春樹インタビュー集「夢をみるために毎朝僕は目覚めるのです」を先日読了した。ずいぶん長い時間を掛けて読んできたので,ややぼやっとしているところもあるのだけれど,やはりポイントは村上氏の物語の作り方にあると思う。

表題にあるように,村上氏の物語の作り方とは,夢を見るように自分自身の奥深いところに「降りていく」ことによって,物語を「紡ぎ出す」という感じかと思う。インタビューの中によく出てくるのは,自分でも予想だにしない登場人物が生まれたり,ストーリーが展開されたり,といったプロセスがよくあるということ。だからこそ,作者がどのような意図をもってその人物やストーリーを展開したか,を作者に問うことは無意味であり,テキストは作者を含めたすべての人に平等に開かれている,というのである。

私が論文を書くときは,当たり前だけど,自分の論理的な能力をフル回転させ,メッセージが明確に伝わるように慎重に言葉を選び,構成を練るし,それがすべてである。小説だって,ある程度そうやってできるもんだろう,と思っていたのだ。漠然と。もちろん,登場人物の性格や設定を決めれば,そこからストーリーが半ば自然に展開されることがあったとしても,登場人物の設定自体が何かの意図を明示的にもたずに,半ば無意識のような状態の中から立ち上がる,というのは,想像を超えることだ。さらに,そのようにして作られた氏の作品が,私だけでなく,世界中の人たちを惹きつけるのだから,二重に驚かされる。

ただ,論文を書くときにも,直感的に,あるいは,ずっと考え続けているうちに,自然と中心的な概念が整理される,ということもあるから,それを突き詰めていくと,氏のような文章の作り方になるのかな・・・とも思える。未知の自分をテキストの作成にどのように活かすのか,という問題なのだろうか。

手法はさておき,「ノルウェイの森」や「国境の南,太陽の西」のようなリアリズムの文体を用いた新作を期待している人が多いのではないか,と思うのだけど。将来的にもう1作ぐらい,あるかな・・・?

超「超」整理法

6月22日(水)

論文の仕上げが終わって仕事が一段落したのだけれど,なんとなく体が重い日々。やはり目玉になる仕事がないと,小さな失敗やプレッシャーに過剰に反応してしまい,全体的に調子があがらないのかもしれない。ここのところ,授業でもミスが多い気がするが・・・。でも,考えてみればいつもミスばかりしているからな・・・。気のせいだ,おそらく。

いろんな人と話をしていると,ポロっとうれしいことを聞くこともある。ちょっとした仕事に感謝してくれたり,愚痴みたいな話をありがたがったくれたり,アイディアをほめてもらったり。そうそう,子供とプールに行ったら,すごくうれしそうで,そういうのも日々の生活に力を与えてくれる。ぼちぼち,気持を盛り上げていかないと。

野口悠紀雄「超「超」整理法」を読了。野口先生のファンで,「超」整理法を実践している私としては,もっと早く読むべき本だったが,ようやく。今回も随所に発見があった。基本的に野口先生は,とてもせっかちなんですね。私たちが気づかないところにストレスを感じるから,工夫が生まれ,新しい整理法ができる。その恩恵に与ることができる,というのは,非常にありがたい。以下,読書メモ。

・分類するな,検索せよ。
・Gメールをデータベースにする。メールで何でも送って,グーグルに保存。
・検索は,仮説を立てて,and検索。
・知的作業に重要なプロセスは,問題設定,仮説の構築,モデルの活用,の3つ。
・知識が増えれば,能力は高まる(視野が広がる)。
・新しいメッセージ(問題設定と仮説)を得るには:考え続ける。とにかく始める。歩く。寝る。材料が詰まっていれば,環境が少し変化したところでアイディアが得られる。

本書に紹介があるグーグルのディスクトップ検索はすごい威力。PC内の検索はこれでだいぶ楽になるな。

春の出来事メモ

6月10日(金)

昨日は1日中ゼミをやっていた。25名の卒論を指導するというのは,やっぱり大変なのだけど,まずは体力的な部分が予想以上にキツイ。それに誰に何を指示しているのかを忘れるし。いやはや,まだまだ苦労は続きそうだなぁ。ゼミ懇親会は16名参加で,それなりに盛り上がった印象。よかった。

今週の頭からフェイスブックをやり始めて,なんとなく仕組みがわかってきた。それに,野口悠紀雄氏の「超「超」整理法」を読み始めて,早速Gメールにメールを転送するようにした。というわけで,最近はやけにネットづいている感じ。少し生活や仕事のスタイルが変わる?かも。

4月後半から今までにあったことメモ。

・1期生と同窓会。楽しく過ごせる。
・A被服で久々に報告。研究はいったん終了するけど,組合関係で今後もおつきあいができそう。うれしい。
・某学会全国大会が香川で。S先生が今年で退官とのことで,やや寂しい。
・ゼミOBのK君,上司とともに研究室に。企業では優秀社員として評価されている様子。いいぞ。
・小学校で運動会。徒競走,娘はスタートに失敗・・・。
・ゴールデンウィークは産地の論文書き。その後論文は完成。ちょっとした満足感に浸る。
・別の学会全国大会は熊本で。2つの発表に関わり,大忙し。まあ,一応の成果ありか。熊本はよい街と再認識。しかし,疲れが半端なく,その後3年ぶりぐらいに風邪を引いた。
・ゼミOG,Cさんの再就職をお世話。うまくいくといいけど。

読んだ本もメモ。それなりにおもしろい本が多かったし,ここに詳しく書きたい本もあったんだけど・・。時間なし。

佐藤優「私のマルクス」
思想的自叙伝とのこと。驚愕の幼少時代から学生時代。高校時代にソ連・東欧へ単独旅行。1975年ですよ!学生時代の活動や勉強量も半端ない。外交官時代も,ロシアの大学で授業するとか,宗教学の翻訳本を出すとか・・・大学教員からすると,立場がなく,何も言えない。

岡野雅行「人生は勉強より「世渡り力」だ」
「痛くない注射針」を開発した岡野工業社長の人生哲学。周辺にはない価値観で,いろいろ思うとおろはあった。人つきあいへの投資を惜しむな。人と違うことををやり抜け。自己演出で人を引きつけろ,といったところがメッセージか。理解はできるものの,実践できるかどうかは,また別問題。

内田樹「下流志向」
不機嫌を取引している若者,という指摘は,新鮮だった。確かに,対人関係において,不機嫌な態度をとると,相手がそれを緩和させるように行動を取る可能性があり,有利に関係を構築できる可能性がある。不幸を呼ぶ取引。学習という行為の性質についても,よく理解できる。なんの役にたつのかわからないけど学ぶ,というのが学びの本質である。

大村はま・刈谷剛彦・夏子「教えることの復権」
一昨日ブログに書いたとおり,すばらしい教育論。教員は教えないとダメだ!学生が興味をもつような授業を組み立てるべし。とても勉強になった。

夏目漱石「彼岸過迄」
世間的には構成に難がある,とか言われているようだが,私としては大変おもしろく読んだ。それぞれの登場人物が立っているし,それに繋がるエピソードの作り方が秀逸。個人的には「報告」の章が一番おもしろかった。

教えることの復権

6月8日(水)

授業関係で書いた文章。貼り付けておこう。

学びの復権は教員から

大学院を共に過ごし,現在は大学教員になっている同僚と飲みに行くと,よく話題になるのは「大学院時代は辛かった」という話である。「引きこもり状態になり携帯が鳴っても出ない」,とか,「研究発表の前になると,病気にならないかと期待するようになる。発表をキャンセルできるから」,とか。一種の不幸自慢であり,関係のない人が聞くとあまり気持のいいものではないかもしれないが,当事者同士は非常に楽しく,盛り上がる。もちろん,現在はお互いに職を得て,曲がりなりにも安定した生活を送っているから笑えるのではあるが。

ところで,大学院時代は,なぜこのように辛いのか。いろいろな理由はあるのだが,一番辛いのは研究がうまく進まないことである。将来,大学に職を得られるかどうかは博士の学位を取れるかどうか,あるいは,よい研究論文を書けるかどうかにかかっている。しかし,それはたいていうまくいかない。七転八倒の苦しみを経て,ようやく1本の論文を書き上げると,また次の論文に取り組む,というプロセスが大学院の5年間,ずっと続くのである。「入院」と言われるのも,あながち誇張ではない。

飲み会の席では,さらに大学院の教育に話が至ることが多い。つまるところ,大学院が辛いのは,教育の方法に原因があるのではないか,という話である。簡単に言えば,私たちが受けてきた大学院の教育とは「ここまできなさい型」である。世の中にはすばらしい研究があり,それを本として読むことができる。そして「求められる水準はこれです。この水準まで研究を進めなさい」という指示がでる。しかし,どうやってその水準にまで行けばいいか,については,極めて抽象的にしか示されない。具体的な研究プロセスの中で,大学院生自身が次に何をどのようにすればいいのか,つまり,インタビューに行けばいいのか,もっと文献を読んだ方がいいのか,アンケートをすればいいのか,といった具体的な判断は,多くの場合大学院生自身に任されている。だから判断するプロセスで悩む。またその判断を間違えると1からやり直しとなることも多い。引きこもりなっても全くおかしくない。

しかし,大学院は大学教員を希望する人たち,いわばプロ予備軍が集う場所であるので,このような方法によって個々の研究者が大きく能力を飛躍させるケースも多い。そこで得た方法は,骨身に染みて身につき,大学教員となってからの糧となる。だからこそ,今でも多くの大学院がこの形の教育を継続しているのだろう。他方で,通常の大学生,つまり大学の学部教育において「ここまできなさい型」の教育をやると,往々にして,学生はまったくついてこない。「さあ,やりなさい。やり方から考えなさい」,というアプローチが通用しないのである。大学院でその形の教育しか受けていない大学教員には,割と多い形ではないか,と(個人的には)思っている。

前段が長くなったが,大村はま・刈谷剛彦・夏子著『教えることの復権』(ちくま新書)が説くのは,このような丸投げ型の教育は教育ではなく,教員は「教えなくてはダメだ」ということである。この本では,現在の教育の現場では,学生が自主的に考えることが重要であり,教員はあまり介入してはいけない,という考え方が蔓延していると指摘している。つまり教員が教えずに,「自分で考えなさい」と突き放してしまう教育がよしとされているケースが多いのではないか,というのである。この形は「ここまできなさい型」の大学院教育と似た側面をもっている。

考えてみれば,学生がなんの導きもなしに深く考えられることは少なく,無理にやったとしても,到達できる思考の水準は高いものにはならない。だからこそ教師からの「てびき」が求められる。考える方向性を示し,実際に考え方の例を示すことで,より効率的な学びへと導いていくのである。よい教育ができるかどうかは,学生の学びに対して,よい「てびき」を示せるかどうかにかかっている。このことを明快な形で示す本書は,一流の教育論になっていると思う。

しかし,教員としての私は「てびき」を示すことに躊躇してしまうことも少なくない。「てびき」が過剰になると,それに従ってさえおけばよい,という学生の姿勢が生まれる懸念があるからだ。「てびき」が有効に機能するのは,学生が本気になって学習する姿勢があってこそ。楽をしようとする学生が支配的な中では,いくら「てびき」を示しても,学生は指示に従って「こなす」だけになってしまう。学生が教育内容に興味をもち,緊張感をもって取り組んでいるかどうかが極めて重要なのだ。学生の姿勢によって,「てびき」はよいものにも悪いものにもなるのである。

そのように考えると,まず重要なのは,学生が緊張感をもって取り組めるような教育の仕組み,授業の仕組みだ,ということになる。現在の大学生が全体としてやる気に満ちていることはありえない。教員のアプローチの仕方が,学生の姿勢を変えるのであり,トリガーは教員の手ある。本当に身につまされる話であるが,現場の教員は気負わずにその努力を継続することが必要だろう。学びの復権も,やはり教員の手にかかっているのだ。

メディア・バイアス

4月15日(金)

今期の授業は、火、水、木に詰め込んだ。なんとか、金曜日から月曜日までは研究に集中できる体制に。しかし、詰め込み過ぎの結果、金曜日は疲れがとれず、なんとなく体がだるい。今日の目標は、研究の頭にうまく切り換えることだな。

松永和紀「メディア・バイアス -あやしい健康情報とニセ科学」を読了。なぜ買ったかは覚えてない。ずいぶん前からあるはず。最近書棚で見つけて、授業に使えそうと思い、急遽読むことに。

内容は至ってまっとうで、好印象。メディアを通して科学的根拠に乏しい情報が報道される「メディア・バイアス」についての事例と解説。特に、なぜメディア・バイアスが生まれるのか、その分析が入っている点がよいと思う。テレビの場合は、視聴率至上主義。そして、番組制作委託先の待遇の悪さ。また原稿の場合には、フリーライターの待遇の悪さ。さらに、専門家と称する研究者のいい加減な態度と功名心。この辺りの問題が解決しなければ、この問題はなくならない。自分も研究者の端くれとして、心得ておかなければならない。

一方で、やや助長な感じはする。疑わしい情報が流れた事例が続きすぎる印象。逆に、真っ当に報道しているメディアが、どのように仕事をしているかについて、もう少し掘り下げて欲しかったな、とも思う。

ただ、このくらい平易な言葉で書いてくれれば、学生もよく理解できるだろうし、使いやすい本だと思う。学生にも推薦しよう。

遠く離れた場所で思う

4月11日(月)

東日本大震災から1ヶ月が経過。原発の状況は依然予断を許さないし、被災地の多くは、今もがれきに埋もれている様子。明るい知らせは多くない。各国から日本の政治の未熟さを批判され、悲しい。本当になんとかならないのかと思う。国民を元気づけるメッセージの1つもない。これが日本の政治の真の実力だとは思いたくないのだけれど・・・。人や党が違えば、もっとましだっただろうか?

しかし、1ヶ月経っても、被害の全容が把握できないような災害が日本で起こるとは・・・今でも、その事実に唖然とする。被災地の子供たち。お母さんの帰りを待ち、手紙を書く子供の姿。言葉が出ない。

先日、あるゼミ生OGが研究室に来てくれた。市内で働いているのだけれど、仕事を休んで、被災地にボランティアに出かけたという。涙を流しながら、当地の様子を語ってくれた。また、被災地を見て、自分がこれからどうやって生きていこうかと考え続けたという。

この震災で、仕事を休んで四国からボランティアに行こうと思った人は、どのくらいいたのだろうか・・・。私自身は、頭からその考えがなかった。もちろん、仕事は山積で、それどころではないこともあるし、家族もいるので、状況を考えると無理は無理なのだけれど・・・。何か恥ずかしい気持がした。それ以上に、若者の純粋な心に感動した。ほんと、偉いよ。

こういった学生をもっと育てなければ。そのためには、何が足りないのだろう。もっと真剣に考えなくてはならない。

大学へ行くとは「海を見る自由」を得るためなのではないか

3月31日(木)

某サイトのリンクから、印象的な次のサイトを見つけた。少し話題になっている様子。

「卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。」

まずは大学に関する印象的なフレーズ。大学人として胸にとどめたい。

「大学に行くことは学ぶためであるという。そうか。学ぶことは一生のことである。いかなる状況にあっても、学ぶことに終わりはない。一生涯辞書を引き続けろ。新たなる知識を常に学べ。知ることに終わりはなく、知識に不動なるものはない。大学だけが学ぶところではない。日本では、大学進学率は極めて高い水準にあるかもしれない。しかし、地球全体の視野で考えるならば、大学に行くものはまだ少数である。大学は、学ぶために行くと広言することの背後には、学ぶことに特権意識を持つ者の驕りがあるといってもいい。」

さらに大学に行く理由。大学へ行くとは「海を見る自由」を得るためなのではないか

「大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。
言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。
中学・高校時代。君らに時間を制御する自由はなかった。遅刻・欠席は学校という名の下で管理された。又、それは保護者の下で管理されていた。諸君は管理されていたのだ。
大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。無断欠席など、会社で許されるはずがない。高校時代も、又会社に勤めても時間を管理するのは、自分ではなく他者なのだ。それは、家庭を持っても変わらない。愛する人を持っても、それは変わらない。愛する人は、愛している人の時間を管理する。
大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。
池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。
「今日ひとりで海を見てきたよ。」
そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。」

個人的には、諸手を挙げて賛成、とは言えないのだけれど、考えさせられる意見だと思う。これを元に、学生と議論してもいいな。

アフターダーク/悲しみの果て

3月28日(月)

震災から約2週間が過ぎた。直後は毎朝起きると原発のことが気になり、ニュースをチェックしていた。しかし、原発の状況が落ち着くに従って、この場所での生活は平常に戻りつつある。テレビはあまり見ないが、家族を亡くした人のドキュメントのようなものだけ、思わず見てしまう。ツライ。本当にツライが、一方でこういった悲しみに接することぐらいしないといけないのでは、という気がしてしまう。そんなことをしても何も変わらないのだけど。私の日常は、あまりにも平和すぎる。

今は家族が兵庫の妻の実家に戻っており、一人暮らし。黙々と論文を書いている。本来ならこの時期には群馬の私の実家に帰省する予定だったのに、震災でそれがキャンセルになり、結果的に論文を書く時間ができた。皮肉なものだが、それを活かすしかない。まだ論文の前半だが、すぐに壁にぶつかり、悩みながら書き進めている。ただ、それもあまり苦にならない。久しぶりに論文を書く感覚の中に戻ってきたな・・という感じ。さて、4月までにどこまで進めるか。諸般の状況から考えても、ここはストイックにやりきりたい。

冬の初めごろから、ぼちぼちと村上春樹氏のインタビュー集「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」を読み進めていたのだけれど、すでに既読のはずの「アフターダーク」と「スプートニクの恋人」の内容をほとんど覚えてないことがわかった。特に「アフターダーク」は全く記憶がない。両書に関するインタビューの内容が理解しにくいので、再読することに。

というわけで「アフターダーク」なんだけど、やはりあまり何も残らない・・・のが正直なところ。ラスト近く、姉のベッドに入っていくマリの描写のところだけが輝いている感じ。やはり実験的な意味合いが強いかな、と思う。

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さっきたまたま見つけたエレファントカシマシ「悲しみの果て」は心にしみる。被災者の皆さんに早く素晴らしい日々が来てほしい。

2011年3月11日

3月14日(月)

前回のエントリーの数時間後に、今回の地震がおこった。私はちょうど経済研究所で会議をしている最中に、その時間を迎えたようだ。そのとき、同じように南海地震が起こっていればどうなっていたのか。思わず思索を巡らしてしまう。

会議が終わり、研究室に戻る。携帯電話に妻からの着信があり、Cメールも受信している。メールを見て、大きな地震があったことを知る。両親は大丈夫、とのこと。急いでネットを見ると、茨城県沖で大きな地震との速報(後続した地震の速報を最初に見たわけだ)。妻に電話をして、母親の携帯にも連絡してみる。2回ほどですぐにつながり、母は閉鎖されたスーパーから帰る途中とのこと。父親は市役所で税金の申告中で、まだ連絡が取れていないとのことなので、こちからから父親に連絡してみる。ほどなく父親と携帯がつながり、無事を確認。ほっと胸をなで下ろす。「70年生きてきて、一番大きな揺れだった」と父。M9.0なんだから、それはそうだ、と今更ながら思う。ちなみに、父親の携帯に電話したのは、初めてだと思う。

その後、学校のPCにテレビの画面を写してみると、ちょうど津波が押し寄せるところで、ショッキングな映像ばかりが続く。津波が襲うライブ映像では、畑の中を津波が走り、逃げまどう車の姿がある。仙台空港が津波にのまれる。海上の白い津波が陸地に向かう映像もあった。今、テレビにあふれている映像がライブで流れていたのだ。

なんとか皆逃げる時間ぐらいあったのではないか。直下型ではないので、建物はそれほど傷んでいないし、神戸の地震の死者を超えることはないのではないか。当初はそんなふうに考えていた。しかし、原発のトラブル、気仙沼の火災、仙台の海岸に200の遺体、と報道が進んでいくと、今回の事態が未曾有のものであることが明白になった。地獄のような映像がこれほど溢れかえるとは思っていなかった。ちょうど9.11のあの映像が、パターンを変えて次々と流れるようなものである。 あまりにも被災地が広い。

神戸の震災は、半ば被災者のようなところがあった。私自身も大きな揺れを経験し、被害はなかったが、被災地はすぐ近くであり、原付でボランティアに行くことができた。それこそ2ヶ月ぐらいは必死に現場で働いたと思う。そのときには、とりあえず、気持ちの「やり場」があって、自分自身をそれなりに納得させられたのだと思う。 逆に言えば、自分の気持ちを整理するためにボランティアに行っていたところもあった。

今回は違う。被災地は遠く、電力の節約さえも役に立たない。もちろん、仕事があり現場に行くことは考えられないし、遠くから状況を見守るしかない。加えて、今は家族がいる。妻と2人の娘。それを失うことを思い、震え上がっている。

家族を失った人達へのインタビュー。固まった顔で話し出すが、最後に急激な感情の波にさらされ、涙する男性が多い。見ていられない。何でも起こりうるこの世界の無情さを思い、押しつぶされるような感情が去るのを待つ。

子どもたちは無邪気な笑顔を見せる。今回の惨事をどう伝えればいいのか。私はこの平穏を守り続けることができるのか。静かにじっと考え続ける。せめて、重苦しい思いに向き合わなくてはいけない。そして出来る仕事を1つずつこなしていこう。いつも通りに。

被災者の皆様に心よりお見舞い申し上げます。

大学生からの文章表現

3月11日(金)

最近の出来事。月初めに神戸でJanet先生と面会。初日は早い英語に圧倒されまくり。あれほど聞き取れないとは・・・。2日目はゆっくり話してもらい、なんとか無事こなす。ほっと一息。最近、あんな風に喜びをかみしめたことはないな。その後、大学で雑務をこなしつつ、6日には再び関西へ。Janet先生の講演を聴講した後、大阪で同窓会。こちらも楽しく過ごせる。OB/OGと楽しく過ごせるというのは、教員冥利につきる。幸せ。よい気分で台湾に向かう。2日目5時間にわたるインタビューはさすがに疲れたが、得るものも多く、大変勉強になる。台湾は2度目なので、市内は特に見るところもなく。大衆台湾料理は、おいしかった。意外とお酒を飲む場所を探すのに苦労した。台湾の人は、食事をしながらお酒を飲まないらしい。不思議。

というわけで、相変わらず論文を書く時間はなく、日は刻々と過ぎていく。焦るが、進まず。なんか学生の時みたいだなぁ。

出張の移動時間も、時々の雑務に追われ、あまり読書には時間を割けず。かろうじて読んだのが、黒田龍之介「大学生からの文章表現」という新書。著者は言語学が専門で、大学生に「読みやすくて楽しい」文書を書かせるための講義を再現し、ポイントを解説したもの。どちらかというと、教員側に向けられた本のようにも思える。

ポイントは「読みやすくて楽しい」文章を書かせるために、学生の「書く」という行為への堅い先入観を取り去ることのようだ。つまり、文書とは本来的に多様であり、書こうと思えば、いくらでも自由に楽しく書ける。その可能性を学生の前に提示してあげれば、学生は自然と人を楽しませる文章を書けるようになる・・・というもの。確かに、学生の文書は、楽しげで、読ませるものになっていく。例えば、本に挙がっている学生の文章の冒頭。テーマは「どうしてもやめられない私のクセ」。

「困ったときにアゴや鼻の下のあたりを指でこする習性がある。正確に答えると、こするというよりはむしろ当てるといった方が正しい。そうそう、そんな感じ。そんなにこすらないで・・・うん、あーだいぶ良くなってきた。」(p。93)

うちの学生もこんな文章を書ければいいよなぁ・・・そして私も。ポイントは内容が楽しいというよりも、文体や視点、オチが楽しい、ということかな、と思う。こういった「楽しい」文章は、経営学を学んできた私にとっては、考えたこともないものであり、本はとても新鮮に読むことができた。

他方で、読んでいて楽しい文章は、ブログにはいいけれど、やっぱり学術的な文章として書くと価値を損なうわけで、そこがやや悩むところである。うちの学生にこんな文章を書くトレーニングをさせると、文書嫌いは直るかもしれないが、卒論を書く時には別の書き方を仕込まないといけない・・・ということになる。卒論で、急に語りかけるような文章になっても、困るのは困る。

というわけで、おもしろく、新鮮ではあるが、大学教員としてこの本をどう使うか、というのは、課題として残った。でもいい本だなと思う。



外国語学習の科学

2月21日(月)

神戸でJanetに会うまで10日あまりとなり、にわかにうまく英語でコミュニケーションがとれるのか、不安が募ってきている。昔に比べれば、それこそKevinのところに通う前に比べれば、会話はずいぶんとましにはなってきていると思うが、それでも最低限、というレベルからなかなか脱しない。ただ、最近は単語の覚えがよくなってきたような気もして、少しずつ会話に関する感覚も変わってきている。在外研究がかなり現実的になり、英語能力の上達が差し迫った問題である今、今年こそが、英語学習にとって重要かもしれない。

というわけで、英語学習のためのの新書、千野栄一「外国語上達法」白井恭弘「外国語学習の科学」を読んだ。どちらの本も有益ではあったが、前者は残念ながらちょっと古く(第1刷は1986年刊)、消化不良気味なのに対して、後者は最近の第2外国語習得研究の成果が解説してあり、大変に有益であった。以下、2冊のポイントについて、備忘録として記す。

・継続的な学習が重要な外国語習得には、目的意識が重要。
単語の習得がまず重要。基礎文法ももちろん重要。ただし、語学には文法では理解できないところも多く、曖昧性をもったものであることも理解しておく。
外国語習得には、インプット(読む、聞く)がまず重要。アウトプット(話す、書く)は、基本的にインプットをベースにしたものだから、それ自体から学習が進むのではなく、自動化(無意識にできること)が進むだけである。すなわち、インプットをメインに、アウトプットを少しずつやるのが効果的である。
・大人になってからネイティブのように発音する、というのは極めて難しいが、「通じればよい」と思うと改善もないので、上を目指しながら、うまくいかなくても落ち込まない、という姿勢が重要。
・会話の前にリハーサル(頭の中での会話の練習)が無意識できるようになればしめたもの

今後は、インプットとアウトプットのバランスに気をつけて、勉強を進めたい。漠然と思っていたことが本にも書いてあって、勇気づけられた気がする。

それから、大学の生協で見つけた大嶽秀夫「日本型ポピュリズム」も読了。ポピュリズムの定義と小泉・田中旋風の2000年初め頃の政治状況がよくわかった。田中氏に関するメディア報道の内容と彼女の側近への振る舞いの事実が全く違っていたようで、二重の意味で怖い。ポピュリズムの定義、以下にまとめておく。

「ポピュリズムとは、「普通の人々」と「エリート」、「善玉」と「悪玉」、「味方」と「敵」に二元論を前提として、リーダーが「普通の人々」の一員であることを強調すると同時に、「普通の人々」の側に立って彼らをリードし「敵」に向かって戦いを挑む「ヒーロー」の役割を演じてみせる、「劇場型」政治スタイルである。それは、社会運動を組織するのではなく、マスメディアを通じて、上から、政治的支持を調達する政治手法の1つである。」

ブラック・ダリア

2月15日(火)

どうも最近寝付きが悪いと思っていたら、昼間にコーヒーを飲み過ぎていることに気がついた。・・・と言っても、2杯ぐらいだけど。今日からは昼間のコーヒーを止めで、生活リズムを整えよう。なんとか自分の研究に集中できる体制を整えなければ。

ジェイムズ・エルロイ「ブラック・ダリア」を読了。寝付きが悪いせいで読書の方は割と進み、昨晩は久しぶりに深夜まで読んでいた。元々は馳星周さんの本を好んで読んでいた時に、彼が頻繁に言及する作家ということで記憶していた。「ノワール」というのだろうか。本書は著者のLA4部作の第1作にあたる。

エリザベス・ショートという若い女性の惨殺事件を巡り、ブライチャートとブランチャードという2人の元ボクサーの刑事が奮闘する前半部分。似た名前で読みにくいな、と思いつつ、最初は「相棒」みたいな、コンビものかと思ったのだが、なんという勘違い。話は徐々に陰惨さを増し、意外な展開を見せていく。ブランチャードは中盤で姿を消し、その後は殺人事件を巡る中で落ちぶれていくブライチャートの人生に殺人事件の謎解きが加わっていく。後の解説でわかったことだが、この殺人事件は実際にあり、未解決のままになっているそうだ。

殺人事件を巡るストーリーは複雑で、伏線がそこかしこに潜んでおり、前を読み直さないと何のことかわからない部分もある。もう話は終わりか、と思いながらも、次々と新たな(そして更に憂鬱になる)ストーリーの流れが生まれ、話は深く、暗く展開していく。そこから感じられるのは、著者の異常なまでの執着、執拗さ、である。通常のモチベーションでは、この異常に暗い話をここまで徹底的に書ききれないだろう。そこに若干の恐怖を感じるし、読後も陰鬱な圧迫感を感じる。さらに言えば、作家の力量が一番恐ろしいかもしれない。

あまり気軽に読める類のものではないが、作品としては一級品だと思う。同じ著者の「LAコンフィデンシャル」は映画で見たような気がする。また気が向いたら、LA4部作のどれかを読んでみようと思う。

アイシテル

2月1日(火)

平井堅 「 アイシテル」のPV、これはあかん・・・。序盤にある家族のシーンだけで、泣いてしまった。こんなこと初めて・・・。

女ざかり

1月31日(月)

1月も今日で終わり。お正月は意を決してゆっくり過ごして、リラックスできた。その後、予想できていたとはいえ、怒濤の仕事ラッシュで、最後はややフラフラに。アパレルアンケートの打ち合わせと設計の最終調整、そして、発送へ。その間、在外研究のオファーを出して、慣れない英語メールに四苦八苦。センター試験監督でキツイ週末を過ごした後は、講演2連発。さらに、妻の誕生日、入試、KT研究会で名古屋へ。先週は細々仕事をこなしつつ、今日の卒論提出で、ようやく一段落の感じ。合間合間の卒論指導にも、毎年のことながら、えらく時間がかかりました。来年、25名の卒論指導については、これから対策をじっくり考えねばなぁ・・・。

最近、読了したのは、たった2冊。このペースじゃぁ、読書日記を付ける意味も、あまりなさそうだな・・・。

昼休みにパラパラとめくる感じで、なんとなく読み始め、なんとなく読み終わった。戦後の世界経済史は、とりあえず、社会主義経済の苦闘と崩壊、という現象が大きい、ということはよくわかった。・・・しかし、この分野はずいぶんと勉強不足で、相変わらずこんなのんきな感想しか書けないのが情けない・・・。

打ちのめされるほどすごい本」に触発されて、丸谷氏の小説を東京・品川駅前の本屋で購入。あの独特の古語調の文体(なんていうのかわからないが)、リズムがあり読みやすいような、そうでもないような・・・。設定がおもしろく、キャラクターも立っている割には、エピソードが少なく、やや消化不良。もっといろいろ書けそう感じもする。40歳を過ぎた女性の感慨、というか、人生観というか、人間関係というか、そんなもんかな、と思う。おもしろく読めたけど、絶賛というところまでいかないのは、私がまだ子供からだからか??