大学へ行くとは「海を見る自由」を得るためなのではないか

3月31日(木)

某サイトのリンクから、印象的な次のサイトを見つけた。少し話題になっている様子。

「卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。」

まずは大学に関する印象的なフレーズ。大学人として胸にとどめたい。

「大学に行くことは学ぶためであるという。そうか。学ぶことは一生のことである。いかなる状況にあっても、学ぶことに終わりはない。一生涯辞書を引き続けろ。新たなる知識を常に学べ。知ることに終わりはなく、知識に不動なるものはない。大学だけが学ぶところではない。日本では、大学進学率は極めて高い水準にあるかもしれない。しかし、地球全体の視野で考えるならば、大学に行くものはまだ少数である。大学は、学ぶために行くと広言することの背後には、学ぶことに特権意識を持つ者の驕りがあるといってもいい。」

さらに大学に行く理由。大学へ行くとは「海を見る自由」を得るためなのではないか

「大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。
言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。
中学・高校時代。君らに時間を制御する自由はなかった。遅刻・欠席は学校という名の下で管理された。又、それは保護者の下で管理されていた。諸君は管理されていたのだ。
大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。無断欠席など、会社で許されるはずがない。高校時代も、又会社に勤めても時間を管理するのは、自分ではなく他者なのだ。それは、家庭を持っても変わらない。愛する人を持っても、それは変わらない。愛する人は、愛している人の時間を管理する。
大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。
池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。
「今日ひとりで海を見てきたよ。」
そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。」

個人的には、諸手を挙げて賛成、とは言えないのだけれど、考えさせられる意見だと思う。これを元に、学生と議論してもいいな。

アフターダーク/悲しみの果て

3月28日(月)

震災から約2週間が過ぎた。直後は毎朝起きると原発のことが気になり、ニュースをチェックしていた。しかし、原発の状況が落ち着くに従って、この場所での生活は平常に戻りつつある。テレビはあまり見ないが、家族を亡くした人のドキュメントのようなものだけ、思わず見てしまう。ツライ。本当にツライが、一方でこういった悲しみに接することぐらいしないといけないのでは、という気がしてしまう。そんなことをしても何も変わらないのだけど。私の日常は、あまりにも平和すぎる。

今は家族が兵庫の妻の実家に戻っており、一人暮らし。黙々と論文を書いている。本来ならこの時期には群馬の私の実家に帰省する予定だったのに、震災でそれがキャンセルになり、結果的に論文を書く時間ができた。皮肉なものだが、それを活かすしかない。まだ論文の前半だが、すぐに壁にぶつかり、悩みながら書き進めている。ただ、それもあまり苦にならない。久しぶりに論文を書く感覚の中に戻ってきたな・・という感じ。さて、4月までにどこまで進めるか。諸般の状況から考えても、ここはストイックにやりきりたい。

冬の初めごろから、ぼちぼちと村上春樹氏のインタビュー集「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」を読み進めていたのだけれど、すでに既読のはずの「アフターダーク」と「スプートニクの恋人」の内容をほとんど覚えてないことがわかった。特に「アフターダーク」は全く記憶がない。両書に関するインタビューの内容が理解しにくいので、再読することに。

というわけで「アフターダーク」なんだけど、やはりあまり何も残らない・・・のが正直なところ。ラスト近く、姉のベッドに入っていくマリの描写のところだけが輝いている感じ。やはり実験的な意味合いが強いかな、と思う。

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さっきたまたま見つけたエレファントカシマシ「悲しみの果て」は心にしみる。被災者の皆さんに早く素晴らしい日々が来てほしい。

2011年3月11日

3月14日(月)

前回のエントリーの数時間後に、今回の地震がおこった。私はちょうど経済研究所で会議をしている最中に、その時間を迎えたようだ。そのとき、同じように南海地震が起こっていればどうなっていたのか。思わず思索を巡らしてしまう。

会議が終わり、研究室に戻る。携帯電話に妻からの着信があり、Cメールも受信している。メールを見て、大きな地震があったことを知る。両親は大丈夫、とのこと。急いでネットを見ると、茨城県沖で大きな地震との速報(後続した地震の速報を最初に見たわけだ)。妻に電話をして、母親の携帯にも連絡してみる。2回ほどですぐにつながり、母は閉鎖されたスーパーから帰る途中とのこと。父親は市役所で税金の申告中で、まだ連絡が取れていないとのことなので、こちからから父親に連絡してみる。ほどなく父親と携帯がつながり、無事を確認。ほっと胸をなで下ろす。「70年生きてきて、一番大きな揺れだった」と父。M9.0なんだから、それはそうだ、と今更ながら思う。ちなみに、父親の携帯に電話したのは、初めてだと思う。

その後、学校のPCにテレビの画面を写してみると、ちょうど津波が押し寄せるところで、ショッキングな映像ばかりが続く。津波が襲うライブ映像では、畑の中を津波が走り、逃げまどう車の姿がある。仙台空港が津波にのまれる。海上の白い津波が陸地に向かう映像もあった。今、テレビにあふれている映像がライブで流れていたのだ。

なんとか皆逃げる時間ぐらいあったのではないか。直下型ではないので、建物はそれほど傷んでいないし、神戸の地震の死者を超えることはないのではないか。当初はそんなふうに考えていた。しかし、原発のトラブル、気仙沼の火災、仙台の海岸に200の遺体、と報道が進んでいくと、今回の事態が未曾有のものであることが明白になった。地獄のような映像がこれほど溢れかえるとは思っていなかった。ちょうど9.11のあの映像が、パターンを変えて次々と流れるようなものである。 あまりにも被災地が広い。

神戸の震災は、半ば被災者のようなところがあった。私自身も大きな揺れを経験し、被害はなかったが、被災地はすぐ近くであり、原付でボランティアに行くことができた。それこそ2ヶ月ぐらいは必死に現場で働いたと思う。そのときには、とりあえず、気持ちの「やり場」があって、自分自身をそれなりに納得させられたのだと思う。 逆に言えば、自分の気持ちを整理するためにボランティアに行っていたところもあった。

今回は違う。被災地は遠く、電力の節約さえも役に立たない。もちろん、仕事があり現場に行くことは考えられないし、遠くから状況を見守るしかない。加えて、今は家族がいる。妻と2人の娘。それを失うことを思い、震え上がっている。

家族を失った人達へのインタビュー。固まった顔で話し出すが、最後に急激な感情の波にさらされ、涙する男性が多い。見ていられない。何でも起こりうるこの世界の無情さを思い、押しつぶされるような感情が去るのを待つ。

子どもたちは無邪気な笑顔を見せる。今回の惨事をどう伝えればいいのか。私はこの平穏を守り続けることができるのか。静かにじっと考え続ける。せめて、重苦しい思いに向き合わなくてはいけない。そして出来る仕事を1つずつこなしていこう。いつも通りに。

被災者の皆様に心よりお見舞い申し上げます。

大学生からの文章表現

3月11日(金)

最近の出来事。月初めに神戸でJanet先生と面会。初日は早い英語に圧倒されまくり。あれほど聞き取れないとは・・・。2日目はゆっくり話してもらい、なんとか無事こなす。ほっと一息。最近、あんな風に喜びをかみしめたことはないな。その後、大学で雑務をこなしつつ、6日には再び関西へ。Janet先生の講演を聴講した後、大阪で同窓会。こちらも楽しく過ごせる。OB/OGと楽しく過ごせるというのは、教員冥利につきる。幸せ。よい気分で台湾に向かう。2日目5時間にわたるインタビューはさすがに疲れたが、得るものも多く、大変勉強になる。台湾は2度目なので、市内は特に見るところもなく。大衆台湾料理は、おいしかった。意外とお酒を飲む場所を探すのに苦労した。台湾の人は、食事をしながらお酒を飲まないらしい。不思議。

というわけで、相変わらず論文を書く時間はなく、日は刻々と過ぎていく。焦るが、進まず。なんか学生の時みたいだなぁ。

出張の移動時間も、時々の雑務に追われ、あまり読書には時間を割けず。かろうじて読んだのが、黒田龍之介「大学生からの文章表現」という新書。著者は言語学が専門で、大学生に「読みやすくて楽しい」文書を書かせるための講義を再現し、ポイントを解説したもの。どちらかというと、教員側に向けられた本のようにも思える。

ポイントは「読みやすくて楽しい」文章を書かせるために、学生の「書く」という行為への堅い先入観を取り去ることのようだ。つまり、文書とは本来的に多様であり、書こうと思えば、いくらでも自由に楽しく書ける。その可能性を学生の前に提示してあげれば、学生は自然と人を楽しませる文章を書けるようになる・・・というもの。確かに、学生の文書は、楽しげで、読ませるものになっていく。例えば、本に挙がっている学生の文章の冒頭。テーマは「どうしてもやめられない私のクセ」。

「困ったときにアゴや鼻の下のあたりを指でこする習性がある。正確に答えると、こするというよりはむしろ当てるといった方が正しい。そうそう、そんな感じ。そんなにこすらないで・・・うん、あーだいぶ良くなってきた。」(p。93)

うちの学生もこんな文章を書ければいいよなぁ・・・そして私も。ポイントは内容が楽しいというよりも、文体や視点、オチが楽しい、ということかな、と思う。こういった「楽しい」文章は、経営学を学んできた私にとっては、考えたこともないものであり、本はとても新鮮に読むことができた。

他方で、読んでいて楽しい文章は、ブログにはいいけれど、やっぱり学術的な文章として書くと価値を損なうわけで、そこがやや悩むところである。うちの学生にこんな文章を書くトレーニングをさせると、文書嫌いは直るかもしれないが、卒論を書く時には別の書き方を仕込まないといけない・・・ということになる。卒論で、急に語りかけるような文章になっても、困るのは困る。

というわけで、おもしろく、新鮮ではあるが、大学教員としてこの本をどう使うか、というのは、課題として残った。でもいい本だなと思う。