2011年3月11日

3月14日(月)

前回のエントリーの数時間後に、今回の地震がおこった。私はちょうど経済研究所で会議をしている最中に、その時間を迎えたようだ。そのとき、同じように南海地震が起こっていればどうなっていたのか。思わず思索を巡らしてしまう。

会議が終わり、研究室に戻る。携帯電話に妻からの着信があり、Cメールも受信している。メールを見て、大きな地震があったことを知る。両親は大丈夫、とのこと。急いでネットを見ると、茨城県沖で大きな地震との速報(後続した地震の速報を最初に見たわけだ)。妻に電話をして、母親の携帯にも連絡してみる。2回ほどですぐにつながり、母は閉鎖されたスーパーから帰る途中とのこと。父親は市役所で税金の申告中で、まだ連絡が取れていないとのことなので、こちからから父親に連絡してみる。ほどなく父親と携帯がつながり、無事を確認。ほっと胸をなで下ろす。「70年生きてきて、一番大きな揺れだった」と父。M9.0なんだから、それはそうだ、と今更ながら思う。ちなみに、父親の携帯に電話したのは、初めてだと思う。

その後、学校のPCにテレビの画面を写してみると、ちょうど津波が押し寄せるところで、ショッキングな映像ばかりが続く。津波が襲うライブ映像では、畑の中を津波が走り、逃げまどう車の姿がある。仙台空港が津波にのまれる。海上の白い津波が陸地に向かう映像もあった。今、テレビにあふれている映像がライブで流れていたのだ。

なんとか皆逃げる時間ぐらいあったのではないか。直下型ではないので、建物はそれほど傷んでいないし、神戸の地震の死者を超えることはないのではないか。当初はそんなふうに考えていた。しかし、原発のトラブル、気仙沼の火災、仙台の海岸に200の遺体、と報道が進んでいくと、今回の事態が未曾有のものであることが明白になった。地獄のような映像がこれほど溢れかえるとは思っていなかった。ちょうど9.11のあの映像が、パターンを変えて次々と流れるようなものである。 あまりにも被災地が広い。

神戸の震災は、半ば被災者のようなところがあった。私自身も大きな揺れを経験し、被害はなかったが、被災地はすぐ近くであり、原付でボランティアに行くことができた。それこそ2ヶ月ぐらいは必死に現場で働いたと思う。そのときには、とりあえず、気持ちの「やり場」があって、自分自身をそれなりに納得させられたのだと思う。 逆に言えば、自分の気持ちを整理するためにボランティアに行っていたところもあった。

今回は違う。被災地は遠く、電力の節約さえも役に立たない。もちろん、仕事があり現場に行くことは考えられないし、遠くから状況を見守るしかない。加えて、今は家族がいる。妻と2人の娘。それを失うことを思い、震え上がっている。

家族を失った人達へのインタビュー。固まった顔で話し出すが、最後に急激な感情の波にさらされ、涙する男性が多い。見ていられない。何でも起こりうるこの世界の無情さを思い、押しつぶされるような感情が去るのを待つ。

子どもたちは無邪気な笑顔を見せる。今回の惨事をどう伝えればいいのか。私はこの平穏を守り続けることができるのか。静かにじっと考え続ける。せめて、重苦しい思いに向き合わなくてはいけない。そして出来る仕事を1つずつこなしていこう。いつも通りに。

被災者の皆様に心よりお見舞い申し上げます。

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