所有せざる人々

9月30日(日)

9月も今日で終わりで,在外もちょうど折り返し地点に到達した。最初の苦労を考えれば,とても穏やかな生活が送れているような気がする今日この頃。体調もよい。この10年ほどで積もり積もった疲れがとれてきたのかな。ゆっくり仕事ができるので,量をこなしても,それほどストレスがたまらない。このブログには疲れた・・と書くことが多いので,そうではないときの記録も残しておかないとな^^

ル・グィン「所有せざる人々」を読了。これまたK先生にはるばるスイスまで持ってきてもらって,受け取った本。プライベートの本をもってきてもらうのはやや気が引けたんだけど,時間のある在外中にゆっくり本を読みたい,という気持ちも押さえきれず,一冊だけお願いした。でもそれだけの価値がある本だった。K先生,本当にありがとうございました。

舞台は,架空の惑星,アナレスとウラス。アナレスは,オドー主義というアナーキズム思想をもつ人々がウラスから亡命して住む惑星。主人公のシェヴェックは,時間の同時性理論を構築しようとするアナレスの物理学者で,自身の物理学を発展させようと,100年以上交流の途絶えたウラスに1人で向かうことになる。資本主義や社会主義の国々が争い,貧富の差が大きいウラスで,シェヴェックは徐々にオドー主義とは異なる世界のありようと,自分がなぜウラスに呼ばれたのを理解し,ついに行動をおこす・・・。

500頁を超える大書で,多様な要素が絡み合い,短くこの本の内容をまとめるのは相当に難しい。シェヴェックの若きころからウラスに向かうまでの章と,ウラスに来てからの章が交互に語られ,2つの惑星の様子が読者に徐々に理解されるようになる。また,オドー主義というアナーキズム思想,そして資本主義,社会主義を巡る世界観が,物語のバックグラウンドとして自然に展開されている。さらに,時間の同時性理論,という,これまた興味深い物理学の理論が、シェヴェックの口から説明され,それもなんとく理解できるな・・という感じで、しっくりと物語と調和している。

本書を読んでいてまず驚かされるのは,このような多様な世界観を,1つにまとめ上げ,読者を違和感なく物語の世界へ引き込んでいくことだ。小説を書く能力だけでなく,思想や科学への知識が著者の中に定着していないと,これだけ複雑な構成の物語を,これだけ自然に描ききることはできないはずだ。ル・グィンといえば,「ゲド戦記」が有名だし、私もそれしか読んだことがなかったけど,この本を読むとゲド戦記はやっぱり子供向けの物語だ・・・と思ってしまう。もちろんゲド戦記だって,特別な物語だと思うんだけど。

それと,最後の解説を読んで分かったこと。著者が,どのようにして,このような壮大にして,複雑な物語を描くことになったのか。それは,「人を表現するため」であったという。

「ル・グィンは,小説を書くというのは,バージニア・ウルフにとってちょうどミセス・ブラウンがそうだったのと同じように、電車の向かい側の席の隅にすわっている老婦人から始まるのだという。それはまた,作者の心の中に現れて,”さあ,わたしは誰だと思います,つかまえられるならつかまえてごらん!”そう挑発する魅力的な人物を捉えようとする行為なのだと。言いかえれば,あらゆる小説は人物を描くものであり,教条を説くためでも歌をうたうためでもないと述べているのだ。」(解説,p.568)

つまり,この本の壮大な世界観と数々の仕掛けは,ひとえに「シェヴェック」という主人公を描くための手段である,ということだ。舞台設定のおもしろさや思想を描くため,という理由でこの物語を書けば,おそらく焦点のぼやけた,仕掛けのわざとらしさだけが目立つ,困った小説になってしまうだろう。シェヴェックというきわめて興味深い,また,物語を有効に立ち上げうる魅力的な人物を描く,という目的がぶれないからこそ,この政治と科学をひっくるめたような舞台設定ができあがったのだろう。う~ん,深い。

しかし,この解説はいい。著者名がなくH.K.のイニシャルのみ。物語を引き立てる解説というのはそれほど多くないけど,この解説はよかった。誰なんだろう・・・?

ついでみたいなったけど,磯淵猛「金の芽 インド紅茶紀行」も読了。ミルトン・キーンズの図書館の、ごくわずかな日本語の本の中から,妻が偶然借りてきたもの。紅茶には全く興味がなかったけど,アッサムとセイロンという紅茶の産地の背後に,こんな物語があったとは。すごく勉強になった。

明日から10月。後半は,少し研究的な挑戦もしてみようと思う。さて、果たしてどうなりますか・・・。





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