教えることの復権

6月8日(水)

授業関係で書いた文章。貼り付けておこう。

学びの復権は教員から

大学院を共に過ごし,現在は大学教員になっている同僚と飲みに行くと,よく話題になるのは「大学院時代は辛かった」という話である。「引きこもり状態になり携帯が鳴っても出ない」,とか,「研究発表の前になると,病気にならないかと期待するようになる。発表をキャンセルできるから」,とか。一種の不幸自慢であり,関係のない人が聞くとあまり気持のいいものではないかもしれないが,当事者同士は非常に楽しく,盛り上がる。もちろん,現在はお互いに職を得て,曲がりなりにも安定した生活を送っているから笑えるのではあるが。

ところで,大学院時代は,なぜこのように辛いのか。いろいろな理由はあるのだが,一番辛いのは研究がうまく進まないことである。将来,大学に職を得られるかどうかは博士の学位を取れるかどうか,あるいは,よい研究論文を書けるかどうかにかかっている。しかし,それはたいていうまくいかない。七転八倒の苦しみを経て,ようやく1本の論文を書き上げると,また次の論文に取り組む,というプロセスが大学院の5年間,ずっと続くのである。「入院」と言われるのも,あながち誇張ではない。

飲み会の席では,さらに大学院の教育に話が至ることが多い。つまるところ,大学院が辛いのは,教育の方法に原因があるのではないか,という話である。簡単に言えば,私たちが受けてきた大学院の教育とは「ここまできなさい型」である。世の中にはすばらしい研究があり,それを本として読むことができる。そして「求められる水準はこれです。この水準まで研究を進めなさい」という指示がでる。しかし,どうやってその水準にまで行けばいいか,については,極めて抽象的にしか示されない。具体的な研究プロセスの中で,大学院生自身が次に何をどのようにすればいいのか,つまり,インタビューに行けばいいのか,もっと文献を読んだ方がいいのか,アンケートをすればいいのか,といった具体的な判断は,多くの場合大学院生自身に任されている。だから判断するプロセスで悩む。またその判断を間違えると1からやり直しとなることも多い。引きこもりなっても全くおかしくない。

しかし,大学院は大学教員を希望する人たち,いわばプロ予備軍が集う場所であるので,このような方法によって個々の研究者が大きく能力を飛躍させるケースも多い。そこで得た方法は,骨身に染みて身につき,大学教員となってからの糧となる。だからこそ,今でも多くの大学院がこの形の教育を継続しているのだろう。他方で,通常の大学生,つまり大学の学部教育において「ここまできなさい型」の教育をやると,往々にして,学生はまったくついてこない。「さあ,やりなさい。やり方から考えなさい」,というアプローチが通用しないのである。大学院でその形の教育しか受けていない大学教員には,割と多い形ではないか,と(個人的には)思っている。

前段が長くなったが,大村はま・刈谷剛彦・夏子著『教えることの復権』(ちくま新書)が説くのは,このような丸投げ型の教育は教育ではなく,教員は「教えなくてはダメだ」ということである。この本では,現在の教育の現場では,学生が自主的に考えることが重要であり,教員はあまり介入してはいけない,という考え方が蔓延していると指摘している。つまり教員が教えずに,「自分で考えなさい」と突き放してしまう教育がよしとされているケースが多いのではないか,というのである。この形は「ここまできなさい型」の大学院教育と似た側面をもっている。

考えてみれば,学生がなんの導きもなしに深く考えられることは少なく,無理にやったとしても,到達できる思考の水準は高いものにはならない。だからこそ教師からの「てびき」が求められる。考える方向性を示し,実際に考え方の例を示すことで,より効率的な学びへと導いていくのである。よい教育ができるかどうかは,学生の学びに対して,よい「てびき」を示せるかどうかにかかっている。このことを明快な形で示す本書は,一流の教育論になっていると思う。

しかし,教員としての私は「てびき」を示すことに躊躇してしまうことも少なくない。「てびき」が過剰になると,それに従ってさえおけばよい,という学生の姿勢が生まれる懸念があるからだ。「てびき」が有効に機能するのは,学生が本気になって学習する姿勢があってこそ。楽をしようとする学生が支配的な中では,いくら「てびき」を示しても,学生は指示に従って「こなす」だけになってしまう。学生が教育内容に興味をもち,緊張感をもって取り組んでいるかどうかが極めて重要なのだ。学生の姿勢によって,「てびき」はよいものにも悪いものにもなるのである。

そのように考えると,まず重要なのは,学生が緊張感をもって取り組めるような教育の仕組み,授業の仕組みだ,ということになる。現在の大学生が全体としてやる気に満ちていることはありえない。教員のアプローチの仕方が,学生の姿勢を変えるのであり,トリガーは教員の手ある。本当に身につまされる話であるが,現場の教員は気負わずにその努力を継続することが必要だろう。学びの復権も,やはり教員の手にかかっているのだ。

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